県民文化会館の北方五〇〇メートルの地にある御所八幡社を中心とした付近は、室町時代初期、信濃守護館跡(小笠原氏)があったところという。守護館の西方を旧北国街道が南北に通っている。『町村誌』には、「御所跡、本村東の方、御所耕地にあり、東西三六間一尺(六六メートル)、南北三〇間五尺(五六メートル)、面積一一一六坪(三七アール)、この中央に八幡大神を勧請す、(中略)周辺低きところを今堀あとと唱え、その形跡存せり」とある。現在八幡社近辺は、周囲より一段と高くなっている。八幡社をとりまくように北側を計渇(けかち)川が流れ、堀跡と思われる低地が現存している。裾花川は慶長年間(一五九六~一六一五)に、松代城代花井吉成(よしなり)によって現在の流れに改められたといわれる。中世の裾花川は、県庁のあたりから東方に向かって乱流しており、中御所(なかごしょ)・漆田原(うるしだはら)・平柴(ひらしば)・大黒山(だいこくやま)などが地続きとなっていた。御所耕地の近くには、中御所・堀西番場・舞台・城越などの地名がある。
小笠原政康(まさやす)は、信濃を統一し小笠原中興の英主といわれる。政康の死後、宗康と従兄弟(いとこ)持長(もちなが)とのあいだに家督争いがおき、文安(ぶんあん)三年(一四四六)持長は、守護館を攻め、漆田原、大黒塚で宗康を滅ぼした。これは後世まで「漆田の戦い」といわれる。守護館は廃止され、持長はのち、府中(松本)に移って府中小笠原氏を発展させた。
室町時代後期には、漆田氏がこの地を支配したが、やがて漆田氏も栗田氏との争いに敗れ衰亡した。観音寺には漆田出羽守秀豊の墓といわれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。