水内惣社日吉大神社 栗田 ①祭神 大山咋命(おおやまくいのみこと)・罔象女命(みずはめのみこと) ②由緒 境内地七七八坪、けやきの大樹が数株あり、かつての栗田城本郭築堤上に、流造(ながれづく)りの本殿がある。鎌倉時代栗田氏の祖寛覚が在城した当時からの産土神(うぶすながみ)(栗田大元神社・字東番場耕地)があった。いっぽう栗田村の飛び地妻科村山王(現大字南長野山王)にあった日吉山王社は、栗田氏が戸隠の本寺である比叡山の守護神を勧請(かんじょう)したもので、嘉永(かえい)六年(一八五三)に、水内惣社日吉大神社(みのちそうじゃひえだいじんじゃ)と改称した。明治四十一年(一九〇八)、山王の水内惣社日吉大神社、部屋田の日の御子社(天鈿女命(あめのうずめのみこと))、舎里田の狛天白社(こまてんばくしゃ)、東番場の天神社を合祀(ごうし)した。境内南西地に社務所があり、鳥居のかたわらに、円通院入り口にあった高札場が移建されている。祭日は、春五月三日、秋九月二十三日である。
南俣神社 稲葉 ①祭神 健御名方命(たけみなかたのみこと)・保食命(うけもちのみこと) ②由緒 昔から南俣の産土神で、水難よけの守神としてあがめうやまわれていた。裾花川乱流時代、神社地は小高い平地にあり、水流を左右に分けたところから水俣(みなまた)といわれたという。嘉永三年、諏訪社を南俣神社と改称した。
川合墾田(はりた)神社 川合新田 ①祭神 天照大神(あまてらすおおみかみ) ②由緒 産土神、明治十四年、伊勢社を現社号に改めた。同四十年、九頭竜社・繁農社・厳島社・熊野社を合祀(ごうし)した。
芹田上神社 中千田 ①祭神 建志名神(またの名を八虫(やつむし)大神) ②由緒 古くは、八虫社と称したが、明治十一年に現社号に改めた。境内二八四坪(九三七平方メートル)。本殿の東辺に周囲約一五メートル余のけやきの大木がある。人びとは神木といい、祭日には今も垂(しで)(しめ縄に紙)をつけて祭る。境内地は千田讃岐(さぬき)守の寄進といわれる。
芹田中神社 母袋(もたい)沖 ①祭神 伊豆早雄命(いずはやおのみこと) ②由緒 昔は久我社といった。かつて犀(さい)川北の高い丘に宮を建てたことから「陸(くが)の宮」といった。明治十一年に現社号に改称した。境内摂社として伊勢社・金比羅(こんぴら)社を祭る。
芹田下神社 日詰 ①祭神 南方刀美命(みなかたとみのみこと) ②由緒 昔から諏訪社(俗に富の宮ともいう)といってきたが、明治十一年現社号に改めた。祭日は、芹田上・中神社と同じ五月十五日・九月十五日である。
木留神社 若里 ①祭神 健御名方命 ②由緒 旧荒木村の産土神で、社伝によると正治(しょうじ)年間(一一九九~一二〇一)以前の勧請という。延享(えんきょう)二年(一七四五)火災にあい、古文書・宝物などをなくした。正徳(しょうとく)三年(一七一三)、『倭漢三才図会(わかんさんさいずえ)』によれば、社領一〇〇石を賜ったという。以前、犀(さい)川の沿岸にあって、流木がここに留(とど)まることが多かったため、昔から木留(きどめ)明神と称した。一説に善光寺普請用材を仁科から犀川を流しおろしたとき、この地で陸揚げしたが、材木が洪水で流出しそうになったとき、この神が翁(おきな)となってあらわれ木を留めたという。善光寺七社の一つで、明治十一年に木留神社と改称した。
市村神社 若里 ①祭神 健御名方命 ②由緒 市村の産土神で、口碑(こうひ)では、創建が文治(ぶんじ)年間(一一八五~九〇)という。宝暦(ほうれき)(一七五一)以後松代城主から二石寄進された。諏訪社と称していたが、明治十一年に市村神社と改称した。境内地に稲荷(いなり)社・伊勢社・八幡社など九社を祭る。
上河原稲荷社 若里 ①祭神 倉稲魂命(うがのみたまのみこと)・合祀、荼吉尼天(だきにてん) ②由緒 丹波島鉄橋架替(かけか)えのさい、これを請けおった間(はざま)組と上河原組が協力して、現社殿を建立した。戦後、信州大学工学部の敷地に旧社地をゆずり渡し現在地に移った。現在、南市上河原の人びとが奉斎している。
柳原神社 中御所 ①祭神 健御名方命・少彦名命(すくなひこなのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと) ②由緒 むかし諏訪大明神(笹焼大明神)と称したが、文政(ぶんせい)元年(一八一八)柳原神社と改称した。善光寺七社の一つで、明治四十一年に誉田別命を合祀した。平成二年(一九九〇)、長野市計画街路の拡幅事業にあたり、境内地の一部を提供し、本殿・祝詞殿・拝殿などを新築し、玉垣などを移転した。