円通院 観音堂 浄土宗西方寺末 栗田東番場 ①本尊 如意輪観音(にょいりんかんのん) ②山号 慈教山 ③由緒 栗田氏の持仏堂跡ともいう。明和(めいわ)二年(一七六五)には、もと栗田氏重臣の三戸部(みとべ)氏の持分であった。墓地には、多くの五輪塔がある。西方寺九世単誉雲秀の弟子達現(元禄(げんろく)十二年(一六九九)没)により再興され、明治におよんだ。同六年民有地となったがまもなく旧にもどり現在にいたる。現在の堂は文化(ぶんか)二年(一八〇五)に改築されたものである。
観音寺 浄土宗寛慶寺末 中千田 ①本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい)(享保(きょうほう)六年(一七二一)造立) ②山号 普照山 ③由緒 開基の正範(しょうはん)は天文(てんぶん)二十年(一五五一)上野国に生まれ、天正(てんしょう)三年(一五七五)二五歳で千田村に落ちつき、四八年間住み寛永(かんえい)元年(一六二四)七四歳で死去した。その居屋敷を正徳(しょうとく)元年(一七一一)に一寺とした。山号の普照は正範の院号からとった。現在、十一面木造観音菩薩(ぼさつ)立像・地蔵菩薩なども安置している。大本願辻田正純尼が平成元年(一九八九)から無常住住職となった。
浄願寺 真宗西派 中千田 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 なし ③由緒 寺伝によれば、上杉輝虎の武将、越後米山城主柿崎和泉守の家臣籠島源五左衛門は、柿崎没落後、僧となり智円と号し、その子智源も専福寺の法弟となり、永禄(えいろく)十二年(一五六九)八月浄願寺を創建した。その後、元禄(げんろく)四年(一六九一)専福寺の塔頭(たっちゅう)となった。弘化(こうか)四年(一八四七)善光寺地震で倒壊したが間もなく再建された。明治十年(一八七七)本願寺西派になり現在にいたる。
専福寺 真宗西派 中千田 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 峰仏山 ③由緒 寺伝によれば、延慶(えんきょう)三年(一三一〇)、千田太郎有親が父仲親菩提(ぼだい)のために中千田に千福寺を創建した。応永(おうえい)年間(一三九四~一四二八)堯然のときに専福寺と改めた。天正(てんしょう)五年(一五七七)織田信長に包囲されていた石山本願寺へ兵糧一〇俵を送っている。明治五年に芹田小学校の前身の励精学校が置かれた。学校を見学した勝海舟が授業態度に感動し、庫裏(くり)で筆をとって「励精学校」としたためた(芹田小学校に現存)。境内には、太子堂や乃木希典(のぎまれすけ)筆の「日露戦役忠魂碑」がある。平成五年にはりっぱな本堂に改築された。
養林寺 真宗西派 中千田 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 熊木山 ③由緒 寺伝によれば、延慶三年千田太郎の家臣熊木大助は一向宗に帰依し、本願寺覚如の弟子となり大泉と号した。千田太郎が天台宗養林寺の荒廃したのを再建し、大泉を住職とし熊木山養林寺とし浄土宗に改めた。明治四年専福寺の塔頭(たっちゅう)となり、同十年独立し真宗西派末となった。
瑠璃光(るりこう)寺 浄土宗寛慶寺末 中千田 ①本尊 薬師如来・阿弥陀如来 ②山号 なし ③由緒 もと真言宗の古寺で本尊薬師如来と神将を安置したという。人びとは痾瘡堂(あそうどう)といい、病人の平癒(へいゆ)を祈ったことから「あそうどう」ともいった。治承(じしょう)四年(一一八〇)雷火で焼失、その後、寛元(かんげん)二年(一二四四)に、千田親清が再建し菩提(ぼだい)寺とした。のち水害により現地に移った。元和(げんな)元年(一六一五)寂照知鑑が中興し、浄土宗に改めた。現在、宝形造りの本堂には、薬師如来、観音・勢至菩薩、四天王および十二神将がそろっている。阿弥陀堂は明治十四年に再建、境内には陰刻の摩滅した千田氏の墓が数基残されている。昭和三十四年(一九五九)から、千田連絡会(上・中千田・母袋・日詰)が管理している。同五十三年に墓地を整備し、同五十五年に庫裏を改築した。
観音寺 曹洞宗 七瀬中町 ①本尊 十一面観音 ②山号 大嶺山 ③由緒 古くは峰村にあった。寛保(かんぽう)三年(一七四三)現在地に観音堂を建立。寛延(かんえん)三年(一七五〇)庭に白山社を造り、その後稲荷(いなり)社も祭る。古い懸仏(かけぼとけ)(地蔵菩薩(じぞうぼさつ))がある。
蓮心寺 浄土宗 若里 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 一行山 ③由緒 寺伝では建久(けんきゅう)六年(一一九五)二月、源空(法然)が善光寺参詣(さんけい)のさい、蓮心の願いにより一寺を建て蓮心寺と称した。その後荒廃したが、還誉が中興した。延享(えんきょう)二年(一七四五)火災にあい本堂・庫裏などを全焼した。安永(あんえい)五年(一七七六)にも火災にあった。住僧は五ヵ年間善光寺に日参し、諸国の旅人から寄進を受け、文化十年に再建されたのが今の本堂である。明治十三年(一八八〇)成田山より不動尊を分身勧請(かんじょう)した。
観音寺 浄土宗大英寺末 中御所 ①本尊 馬頭観世音(頼朝の守仏もとどり観音ともいわれる)相殿(あいどの)、聖観世音(漆田秀豊守仏) ②山号 明助山 ③由緒 建久年間(一一九〇~九九)漆田氏の開基創建という。また、建久八年頼朝が善光寺に参詣(さんけい)し、この地に滞留したおり、「この地に止まり永く末世の衆生を済度すべし」とお告げがあったので、頼朝は、ここに一宇を草創し、もとどり観音と聖観音を安置し、自ら「明助山普門院観音寺」と名づけたという(縁起)。八月九日は観音の縁日で「四万八千日」といい参詣者でにぎわう。この日に参詣すると四万八〇〇〇日参詣した功徳(くどく)があるという。
仏導寺(ぶつどうじ) 浄土宗 市村 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 なし ③由緒 寺伝に文治(ぶんじ)四年(一一八八)熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)の開基・創建という。延宝(えんぽう)二年(一六七四)現在地に移転。玉鶴姫の像・綱引き阿弥陀仏を安置する。