一 近世村の初見

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 江戸時代の芹田地区は、時期によって変わるが、松代領・幕府領・善光寺領・椎谷領・浜田領・戸隠山神領などに属していた。

 近世における村は、現栗田が、栗田村というようにおおよそ現在の大字にあたる。栗田村をはじめ、中御所村・荒木村・市村・千田村・南俣(みなみまた)村の近世村の初見はいずれも慶長(けいちょう)七年(一六〇二)の『信濃国川中島四郡検地打立之帳』である(ただし市村・千田は古くからの郷名)。「七九二石五斗七升七合 栗田村」の例と同様である。

 七瀬村は、慶長六年の「善光寺御寺領之割」に「四〇六石一斗七升四合 七瀬川原」とみえ、くだって正保(しょうほう)四年(一六四七)の「信濃国郷村帳」に「善光寺領七瀬村」とある。はじめ七瀬川原村と称したが慶長年間に七瀬村が成立した。この場所は、かつて裾花(すそばな)川が乱流(七瀬)し河原地であったためにつけられた名称であるという。

 川合新田村は、鎌倉時代に河井があらわれるが、元和(げんな)四年(一六一八)「信州川中島知行目録」に更級郡之内として「高一七三石一斗四升二合 川合村新田」とある。北村門之丞が千曲川の関崎河原と犀川沿岸地を開拓し、慶長七年ごろ一村落をなし、川合村新田と称したのが、近世村名のはじめである。