栗田村

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元和(げんな)二年(一六一六)幕府領となり、寛永(かんえい)元年(一六二四)に越後高田城主松平光長の所領となり、元禄(げんろく)十六年(一七〇三)また幕府領になった。明和(めいわ)五年(一七六八)から三ヵ年は高田領主榊原(さかきばら)氏の預り領となったが、その後は幕府領と戸隠山神領(八〇石・別当勧修院が戸隠一山を統括)の分け郷として明治維新にいたった。

 延享(えんきょう)元年(一七四四)の家数八五軒(本百姓七八・水呑(みずのみ)七)、人口三七五人、高八〇七石余(うち二九石余諸引高)、田六二〇石余、畑一五八石余という水田優越村である。正保(しょうほう)年間(一六四四~四八)から元禄期(一六八八~一七〇四)にかけて石高が増加し、その後あまり増加していない。幕末には、換金作物の木綿作りや菜種作りが盛んになった(近村も同様)。秣場(まぐさば)の麓原(ふもとばら)は幕府領五ヵ村と私領二五ヵ村の入会(いりあい)で、山札籾(もみ)を北郷村へ出して、年々刈敷を得ていた。作馬五匹(ひき)を飼い、農民は耕作のあいまにむしろや馬沓(ぐつ)などを作り、女は木綿布を織った。