荒木村

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慶長(けいちょう)三年(一五九八)~元和八年(一六二二)は海津の松代城主の所領、同八年から幕府領となり、寛政(かんせい)二年(一七九〇)から文政(ぶんせい)六年(一八二三)のあいだは、石見(いわみ)国(島根県)浜田藩松平康任(やすとう)の所領となり、富竹陣屋の支配を受けた。のち、幕府領となった。荒木村は早くから開け、宝暦(ほうれき)十年(一七六〇)の村高は一三〇石二斗余、家数一九軒、人口九六人、田高九一石余(うち一石八斗余前々道代引残高八九石余)、畑高三九石余、田畑の割合は七対三、税率は五割で、ほかに筏(いかだ)小揚げ役永二〇〇文、お伝馬(てんま)宿入用・六尺給米・お蔵米入用などを納入した。寛政四年の家数三〇軒、人口一五二人。畑には大麦・小麦や木綿を植え油粕(かす)をいれている。田の肥料には干草を買い、代(しろ)かき馬は戸隠上野(うえの)より雇った。耕作のあいまに男は藁(わら)細工、女は木綿布を織った。薪は茂菅村・久保寺村へ山年貢を納めて刈りとった。舟賃は、小市渡一二四文・寺尾渡一〇〇文・矢代渡二〇〇文・布野渡二四〇文・小柴見渡三〇〇文・市村渡一貫五三二文を年々繋(つな)ぎ籾として出していた(松代領内の他の村々もみな出す)。