はじめ海津の松代城主の所領であったが、元和八年以降は松代領と幕府領の分け郷となった。翌年、幕府領は高田城主松平光長領となり、天和(てんな)元年(一六八一)から元禄(げんろく)十三年(一七〇〇)までは、尾張支藩松平義行領となり、文政九年には、石見国浜田領主松平領となった。天保(てんぽう)七年(一八三六)再び幕府領となった。宝暦十年の幕府領分の家数四五軒、人口二三六人、そのうち、他出奉公人が二四人(多くは近村)いた。秣場(まぐさば)は、松代領東原山で、千田村は山銭(やません)(山手永)として籾(もみ)八俵四斗五升ずつを納めている。文政十一年の幕府領分は、二三六石、六二軒、二三五人で、宝暦十年にくらべて家数は増えたものの人口は増加していない。四六〇石余は、江戸時代をとおして松代領であった。正保年代ごろから増えはじめた石高は、天保年間いちじるしく増加した。文化(ぶんか)六年(一八〇九)の人口三二〇人、安政(あんせい)三年(一八五六)の家数六八軒である。