慶長(けいちょう)七年(一六〇二)の森忠政検地後、枝村の岡田村・九反村をあわせて中御所村となった。村名は建久(けんきゅう)八年(一一九七)源頼朝の善光寺参詣(さんけい)にさいし、漆田氏が館を造り旅舎としたことに由来するといわれる。松代領と幕府領の分け郷であり幕府領分は寛政四年から椎谷領となって明治にいたった。
正保四年(一六四七)村高六三七石余のうち、松代領の蔵入地高は六七パーセント、同領地方(じかた)知行高はおよそ二〇パーセント、幕府領は一三パーセントである。松代領の文化六年の人口は二八一人、安政三年の家数七四軒である。
幕府領は、文化六年から一〇ヵ年定免(一定期間定率年貢)で、納米二八石七斗余・口米八斗余、合わせて二九石六斗余、この代永二三貫五七八文(ただし金一両につき米一石二斗七升五合)ほかに高掛三役などを納めた。
毎年の年貢は、その年の十月に領主(代官)から年貢割付状(土目録・御取箇)として村単位に割りつけられるのが原則であった。