南市と北市の集落からなり、江戸時代をとおして松代藩領であった。
村高は慶長七年(一六〇二)四三六石、元禄十五年(一七〇二)四三八石、天保五年(一八三四)四九〇石としだいに増えた。文化六年北組人口二一二人、安政三年家数五六軒、南組人口三〇九人、家数八七軒である。
市村
南市と北市の集落からなり、江戸時代をとおして松代藩領であった。
村高は慶長七年(一六〇二)四三六石、元禄十五年(一七〇二)四三八石、天保五年(一八三四)四九〇石としだいに増えた。文化六年北組人口二一二人、安政三年家数五六軒、南組人口三〇九人、家数八七軒である。