川合新田村は、犀川の洪水にたびたびあい耕地が流失した。このため一時は三八三石余にのぼった田畑は激減したが、安永(あんえい)(一七七二~八〇)ごろから天保にかけて再開発して石高が大きく増加した。寛延(かんえん)三年(一七五〇)川合と川合新田とは南北にはなれたため分離独立した。文政のはじめ一四九石余、弘化(こうか)末年(一八四八)二二六石余。明治十五年(一八八二)に九二戸、五一一人。
川合新田村
川合新田村は、犀川の洪水にたびたびあい耕地が流失した。このため一時は三八三石余にのぼった田畑は激減したが、安永(あんえい)(一七七二~八〇)ごろから天保にかけて再開発して石高が大きく増加した。寛延(かんえん)三年(一七五〇)川合と川合新田とは南北にはなれたため分離独立した。文政のはじめ一四九石余、弘化(こうか)末年(一八四八)二二六石余。明治十五年(一八八二)に九二戸、五一一人。