三 道と交通事情

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 芹田地区の西部を南北に旧北国街道(主要国道三五号長野真田線)が通っている。犀(さい)川にかかる丹波島橋付近には、江戸時代に市村の渡し(丹波島の渡し)があった。これは丹波島宿と善光寺宿とを結ぶ重要な渡し場であった。

 『菅江真澄遊覧記』の天明(てんめい)四年(一七八四)七月二十三日のところに「丹波島に来て犀川を渉(わた)れば吹上という村になりぬ、ここにものくひ、涼しげなればうち休らひて、こや風に吹上の里のあしすだれかかる涼しき宿もありけり」とある。なお、鎌倉時代の姫塚や頼朝山観音寺の遺跡が旧北国街道の路傍に所在することなどを考えると、古くから善光寺への道として開けていたことがわかる。

 明治十年代の芹田地域には、雄(おす)牛一、雄馬二五が飼われ、荷車四三台、人力車二二両、舟五〇艘(そう)が使用されていた。舟四〇艘は若里(市村・荒木)の舟橋に利用され、残りは堤防普請と石材運搬に使われた。雄馬は農耕馬や運搬馬であろう。

 明治二十一年(一八八八)五月に芹田地区北西の田んぼのなかに長野駅が開業した。同二十三年当時、全国三番目の内閣鉄道局長野出張所器械場(国鉄長野工場の前身、従業員一二〇人)が発足した。同三十七年には新工場に拡張され(一万四〇〇〇坪)、煉瓦(れんが)づくりの近代的な工場となった。そして、昭和二十年(一九四五)三月には、従業員は二三〇〇人に達していた。

 昭和十一年十一月、南長野駅(中御所)から善光寺温泉駅(芋井村広瀬)までの約七キロメートルの善光寺白馬鉄道が営業を開始した。第二期工事は日中戦争のため一時休止した。同十九年には不要不急線として廃止され、施設が撤去された。正味七年余の短い鉄道であった。ちなみに長野市には昭和元年当時、荷積用馬車七八、荷車二七七〇、自動車(乗用一五・荷積用二一)、自動自転車五五、通常自転車四九三一、人力車二八五台などがあった。