天保の飢饉

213 ~ 214

この地域で、江戸時代の飢饉(ききん)のうち、もっともひどかったのは、天明(てんめい)三年(一七八三)、四年、七年および天保(てんぽう)七年(一八三六)であった。

 松代領では文政(ぶんせい)八年(一八二五)の凶作を機に、社倉(しゃそう)囲い米を奨励し飢饉に備えた。南俣(みなみまた)村は天保七年大凶作のさい、つぎのように社倉穀物を二度にわたって小前百姓に対し、融通をしている。天保七年十二月は籾(もみ)一俵ずつを一四人、三斗(五四リットル)ずつを二人、二斗五升ずつを二人、二斗ずつを二人で、合計二〇人で一八俵(六俵五升は大麦)であった。翌年の二月には前年融通の二〇人と新たに九人の合計二九人に対し、一人あたり籾五升から一俵まで、合計一三俵二斗五升(うち一俵大麦)を融通し援助をした。

 その後、南俣村は天保九年高割りと人頭割りでつぎのように貯穀をした。高割りは年貢高一石につき籾三斗三升で、一八二俵余、人頭割りは一人につき二斗五升で一四八俵、合計三三〇俵余であった。天保五年銭一〇〇文につき米七合~一升が同八年四月には二合五勺まで相場が上がった。同九年には六合五勺に回復した。南俣村では天保の飢饉を松代藩の施策とあいまった貯穀籾などによってしのぐことができた。