弘化(こうか)四年(一八四七)の大地震は、善光寺平一円に大きな被害をもたらした。善光寺近郊では箱清水村、腰村など善光寺北・西方の村にはかなり被害があったが、芹田地区は比較的被害が少なかった。栗田村は潰(つぶ)れ家もなく、村のなかで死者はなかった(死者五人が出たが、これは善光寺町で遭難した)。同年四月荒木村役人から中之条御出役へ提出の「潰れ家別書上帳・荒木村」によれば、五一軒のうち七軒が潰れた。中御所村は、家潰れ四軒、半潰れ一二軒であった。
芹田地区はたびたび水害に見舞われている。寛保(かんぽう)二年(一七四二)の水害は、松代領内全体では流家一七三一軒、潰れ家八五七軒、溺死(できし)者一一三〇人などにのぼった。裾花川の諸所が押し切られたため、南俣村・千田村では田畑が残らず水や砂で埋まった。中御所村は居屋敷まで浸水した。市村は高四五〇石のうち、本新田とも一三二石が川欠荒地となった。
慶応(けいおう)元年(一八六五)五月、たびたびの大雨で千曲川・浅川・裾花川の堤が切れ、潰れ家まで出、家財・農具・貯穀米が流れ、あるいは腐り、夫食(ふじき)にも差し支えるため藩へ願い出た結果、荒木村は籾・麦一〇石二斗二升と金九両二朱、半潰れ金五両一分、合わせて金一四両一分二朱の手当てを受けた。千田村へは、夫食などの手当て一三両三分三朱、半潰れ家手当て四両二分、金一八両一分三朱と籾・麦合わせて一五石六斗一升が下付された。村ではそれを水難の程度により各戸に割り渡している。
明治三十五年(一九〇二)七月十五日、豪雨のため各地に大水害が起こり、牟礼~豊野間の鉄道線路は露出して、はしご状となるなど北信一帯は大被害を受けた。裾花川の水量は約三メートルにおよび芹田九反堤防を乗り越えて吹上に浸水したため、芹田一帯は浸水家屋を出した。
昭和二十四年(一九四九)九月二十三日、夜来降り続いた豪雨のため、裾花川は字九反付近において堤防が二ヵ所決壊し、一瞬にして長野市の南端(芹田中心)二千余戸が流失・浸水などの害を受けた。これによる死者・行方不明者は八人、被害額は二〇億円に達した。これは長野市制実施以来はじめての大被害であった(表3)。水害地域は九反、鐘紡長野工場付近より、大豆島の広い地域にわたった。
現在裾花川堤防は、県庁舎付近から犀(さい)川に合流するまで連続堤防となり、水災から街を守っている。