一 寺子屋と師匠

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 地区内に寺子屋師匠の筆塚が二三基ある。天明(てんめい)四年(一七八四)のものがもっとも古い。寺子屋師匠の身分は全国的に武士の比率が高いのに比べて、信州では農民が多いが、芹田地区の師匠の半数余(五三パーセント)は農業で、四三パーセントが僧侶となっている。

 中御所観音寺にある自然石の正面に「阿弥陀仏と唱へてきゆる露の身の花のうてなにやどるうれしさ」と刻まれている塚は、観音寺一八世宗阿の辞世の句である。宗阿の信条は、無常迅速・死縁無量に立つで、平生臨終の教えであったという。

 荒木地蔵庵の筆塚の主は、竜山祖円である(天保十二年(一八四一)没)。祖円は国学に秀で、読み・書きを教えた。弘化(こうか)二年(一八四五)造立の塚に「かけろふに各々心たくしけり」とある。

 旧芹田村役場から北一五〇メートルのところに、水内(本姓倉石)俊昭(としあき)の筆塚がある。俊昭は弘化四年の災禍で死亡した倉石俊明の妹婿に入り、寺子屋を継いで読み・書きを教えた。佩刀(はいとう)(刀をさすこと)と水内姓を許された。

 中千田専福寺前に塚田親好の筆塚(号犀陽・農業)がある。親好は、幼少より学を好み、松代藩士竹内八十五郎・仙台藩士井上某に学び、かたわら算学・天文も修めた。安政(あんせい)六年(一八五九)に帰郷して、「犀北堂」を開き子弟を教育した。生活信条は、「学不厭、教不倦、志益在、老益健」であった。明治六年(一八七三)から励精学校(芹田小学校の前身)に勤め、同十三年朝陽学校(のちの後町小学校)に奉職し、同四十年七〇歳で没した。

 このほか地区内の寺子屋師匠たちは、庶民の教育のためおおいに尽力した。