一 敗戦と民主化への波

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 芹田地区の日中および太平洋戦争の戦死者は二八一人であった。昭和二十年(一九四五)八月十三日、長野市は米艦載機による波状攻撃を受け、多くの市民が戦争の恐ろしさを実感した。長野飛行場(昭和十三年(一九三八)竣工)や長野駅などが直接被害を受けた。飛行場近くの山崎さん一家九人は、防空壕(ごう)で爆弾のため死亡した。同月十五日、太平洋戦争はわが国の無条件降伏によって終結し、新しい時代を迎えた。

 昭和二十年十一月には、若里の鐘紡長野工場に、長野進駐軍司令部(長野軍政部)がおかれ、GHQの方針や指令がつぎつぎに出された。これまで小作農であった大部分の農民が自作農となった農地改革は、戦後、もっとも重要なことで、農村ひいてはわが国の民主化を前進させる基となった。同二十三年には芹田農業協同組合が設立され、農業発展の推進力となった。

 占領行政と新憲法の施行は、日本の政治・経済・文化などの指針となり、その後、社会を大きく変革させていった。