『古牧誌』によれば、明治二十二年(一八八九)に誕生した村名をどうするかで、各村の代表者会で意見がなかなかまとまらなかった。困った末に、西尾張部(にしおわりべ)村の物知り、林幸平(今釈迦とも呼ばれていた)に聞いたところ、林は「聖徳太子がこの辺を牧場として馬を飼われたともいわれ、また、『吾妻鏡(あずまかがみ)』そのほかの古い史料にも、この辺一帯が牧場であったことが記されている。それゆえ、古い牧場すなわち古牧が適切であろう」と提言した。そのため、満場一致で「古牧村」と決定したという。
いっぽう『長野県市町村合併誌』には「区域中古来多ク唱フル処ノ里名ニヨル」とある。
また、栗岩英治は、「長野市内の古牧村の名なども、牧場伝説の漂える一つの表現とみるべきだろう」と『信濃荘園の研究』で述べている。