市村高田荘ほか

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中世になると千田荘(せんだのしょう)が成立したが、これは「千田郷」の荘園化したものと思われる。関白藤原道家が千田荘を建長(けんちょう)二年(一二五〇)に孫の忠家に譲与したことが『峰殿置文』に記されている。ほかに、中世古牧地区には、市村高田(いちむらたかだ)荘(上高田付近・若里付近)・東条(ひがしじょう)荘(三輪・西和田付近ほか)・今溝(いまみぞ)荘(長野市平林・北条付近)があった。これらは寄進地荘園で、市村高田は、市村から高田・長池などを含む広い地域であった。平成五年(一九九三)文化コンベンション建設の基礎工事中に「市寸(村)」の墨書土器片が出土した。市村高田ははじめ藤原氏領であったが、平氏が勢力を得るようになると、平正家の甥(おい)にあたる平正弘領となった。保元(ほうげん)の乱(一一五六)の翌年、敗れた藤原頼長・平正弘らの所領が没収されて、後院(ごいん)領(上皇領)となり市村高田荘が成立した。

 『吾妻鏡(あずまかがみ)』の文治二年(一一八六)「乃貢未済(のうぐみさい)庄々注文」には、「市村高田荘 院御領」とみえる。この荘園は、後白河法皇領となり、のち後白河院の御願寺の長講堂領となった。これは北信濃の皇室領の最大のもので、市村高田の本年貢は白布(麻布)一四五〇反であった。本年貢の大きな数は、この荘園の生産力の高さを示している。