高田西方(にしがた) 通称「じょう」と呼ばれている。明治十年代の地租改正直後の図面によると、南北一〇八メートル、東西六三メートル(空堀ふくむ)、台地の広さ三二四〇平方メートルである。現在は中央を東西に国道長野須坂インター線が通り、その両側には事業所等が建っている。八〇年前までは、空堀のところが全部水田として耕作され、当時、台地と田の面との差が一・八メートルあったという。築城・城主などについてははっきりしない。『諏訪御符礼(すわみふれ)之古書』の「文明(ぶんめい)十一年(一四七九)五月会(さつきのえ)明年御頭足」にある南高田の代官「中沢源左衛門尉家重」と、同十六年にでている南高田郷井上氏知行の代官「中沢源左衛門国吉」は、城となんらかのかかわりがあったと思われる。