和世田神社の北東にあたり、昭和三十七年ごろまで、その名残をうかがいえたが、現在、長野県営運動公園総合運動場の敷地の一部である。明治初年の報告では、「東西一七・七メートル、南北三二・四メートル、平地よりも一・五メートルほど高く、城と外郭との間を空堀がめぐっていた。南には大手があった」とあり、当時は畑であった。鎌倉時代『とわずがたり』の著者後深草院二条が滞在した館と推定する説もある。
東和田館跡
和世田神社の北東にあたり、昭和三十七年ごろまで、その名残をうかがいえたが、現在、長野県営運動公園総合運動場の敷地の一部である。明治初年の報告では、「東西一七・七メートル、南北三二・四メートル、平地よりも一・五メートルほど高く、城と外郭との間を空堀がめぐっていた。南には大手があった」とあり、当時は畑であった。鎌倉時代『とわずがたり』の著者後深草院二条が滞在した館と推定する説もある。