一 村のようす

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 元和(げんな)八年(一六二二)の真田信之の松代入封(にゅうほう)から二五〇年間、松代藩政がつづいた。古牧地区は松代藩の領地で、松代藩は幕末まで地方(じかた)知行制を実施した。全国的に地方知行を実施した藩は、元禄(げんろく)期で一七パーセントと少なく、信濃で幕末まで地方知行を存続した藩は松代藩だけで、これは松代藩政の特色である。松代藩は蔵入れ地高約六十パーセント、知行地高約四十パーセントで、寛保(かんぽう)元年(一七四一)ごろからは半知借上げ策により、両者の比率は約八十パーセント卜対二十パーセントとなっている。古牧地区の村々は、藩の直轄地(蔵入れ地)と藩士知行地の両者に属する村で、藩士知行地が大変多く四地区では九八パーセントにも達している(表2)。北高田村には天保(てんぽう)十一年(一八四〇)に二二人の知行主(地頭)がいた。その知行高の総計は七二七石(一三一立方メートル)で、これは村高の七五パーセントを占めていた。同年、蔵本(くらもと)(知行地管理百姓)も一九人いた。


表2 寛文元年(1661)古牧地区村々藩士知行地

 村は行政の末端にある名主(初め肝煎(きもいり)、宝暦(ほうれき)十四年に改称)・組頭・長百姓の村方三役を軸に、本百姓や非本百姓身分である判下層が、五人組制のもと農業中心の生活をしていた。古牧地区の村役人は、多くは年番制で、名主を交替で出していた。北高田村と平林村には、それぞれ明和(めいわ)六年(一七六九)、寛政(かんせい)十一年(一七九九)から幕末までの公用日記が残っている。この日記などから村のようすの一端をみよう。北高田村の頭立(かしらだち)に対する小前の割合は、約九十パーセントを占めている。はじめ村役人は頭立がつとめることになっていたが、近世後期になると、小前のなかからも村役人がでるようになった。南長池では小前だけで村役人をつとめ「一人は小百姓でもよいが、残りは頭立でつとめるように」と藩から指示されたほどである。小前の発言力は、しだいに強くなり頭立と小前のあいたに争いも起こるようになった。

 松代藩では藩主の慶弔、屋敷の類焼や破損、借財などの場合、村々から高掛(たかがかり)御用達金を出させている。古牧地区村々の場合もそのつど献金をしている。

 村々では、巡礼や道心者等の行き倒れ人がときどきあった。村役は、嘉永(かえい)四年(一八五一)安達神社拝殿で病死した六〇歳ぐらいの男性の処置に五両二分も費用がかかったが、一文も得なし、「煩い居り候内に、何方へ成り共相送り」村内で死なせぬようにと後役へ申し送りをしている。

 寛政十二年の北高田村の倹約定めて一二ヵ条のうち、四ヵ条が冠婚葬祭の簡素化の申し合わせで、休日は五節句と神事だけ、年間の休日は七日と定めている。また、村法では、「諸夫銀(人夫賃など)は惣高で割合う。潰(つぶ)れ百姓の借金は合地(あいじ)と、田地を引き請けたものと、五人組で弁償する。引き請けできぬ時は、村中に割り当てることもある」などこまかに規定をしている。村々では倹約定めや村定めなどによって自治的活動かおこなわれていた。北高田村は文政(ぶんせい)七年(一八二四)鰥寡孤独(かんかこどく)のもの一二人を調べ藩へ報告した。六三歳以上の老齢者が七人、子のない後家、病身の後家、四二歳と三一歳の夫婦で一一歳を頭に五人の子持ちのため稼ぎの追いつかないものなどである。藩は該当者一人につき一俵~三俵を下げ渡した。

 平林地区には若者組=衆(一五歳で入組~三五歳退役)の宝暦(ほうれき)(一七五一~)から昭和までの「永代記録」がある。それによると、盆踊り、獅子舞、相撲、花火など、各行事の推進は村役人の指図により若者衆があたった。若者衆行事の諸活動などをとおして、おのずから彼らのなかにきまりの遵守(じゅんしゅ)や連帯感が育てられた。