二 助弥(二斗八)騒動

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 元和(げんな)九年(一六二三)の松代藩領内の年貢・小役定め書では、年貢籾(もみ)は一俵(五斗・九〇リットル入)につき玄米二斗八升とされていた。ところが寛文(かんぶん)ごろには知行取(地頭)に対し、籾一俵につき玄米三斗摺(ず)りを上納俵とされた。一俵(五斗入)の籾からは三斗の玄米は得られない。これは籾を余分に俵につめさせる増徴策であった。

 村役人などが、藩ヘ一俵につき二斗八升(五〇・五リットル)に減らしてもらうように、何度も嘆願したが聞き入れられなかった。どうしようもなく肝煎(きもいり)たちは、ひそかに相談したがよい考えは浮かばなかった。このとき、下高田村の青年助弥(すけや)が先頭にたって呼びかけ、幕府(藩主説もある)に一俵につき玄米二斗八升に改めてほしいと、訴願者の名前を傘連判(からかされんぱん)に書いて直訴におよんだ。松代藩では越訴(おっそ)の首謀者助弥ほか二人を捕らえ、鳥打峠の刑場で断罪(だんざい)にした。その後、幕府から租税改革の下知を受けた松代藩は、それまでの租税率を改めて三斗摺りを二斗八升摺りとする徴租の規定(地頭納方定、県史近世②四一三頁)を領内村々に交付した。これが延宝(えんぽう)二年(一六七四)十一月十一日付で郡奉行の河野与左衛門・村上勘助から布達された「覚」である。一揆の結果出された覚は、助弥らの願いがとおり、知行主の勝手を許さないものであった。

 助弥の事跡や騒動についての史料は皆無にひとしく、南高田共有文書「永々代記録」のなかに、「延宝二年十万石御百姓訴訟に付、堀村伝兵衛・西尾張部村吉兵衛・下高田村助弥右三人が御仕置になった。村上勘助様・河野与左衛門様から藩士知行地の役を勤めるべき品々を箇条書きでお示しになった。それ以後はそのとおりに勤めている」という記載があるだけである。南高田を中心とする地域の伝承によると、下高田の伊勢社境内にある天神社は、二斗八(にとはち)様(助弥)を祭ったものといい伝えられている。


写真8「永々代記録」南高田共有文書


写真9 伊勢社境内にある天神社

 善光寺本堂北裏にある三重塔は、逆修塔で千人塚といわれ、二斗八塚(助弥の冥福を祈る)ともいう。

 金丸氏先祖霊神(長野市南堀)は、助弥とともに斬罪された人で、文政(ぶんせい)六年(一八二三)に同家の徳兵衛が建立したものである。

 地区の人びとは、大正末期から昭和初頭にかけ、助弥の顕彰に力をいれた。大正十四年(一九二五)義民助弥の祠(ほこら)を南高田公会堂南西隅に、昭和十二年(一九三七)には、助弥の誕生地(南高田)に「義民助弥誕生の碑」をたてた。また、このころ助弥の歌がつくられ、盆踊りに歌われた。同十六年ころまで助弥コンニャクと称して、長野市近郊の村々を行商した人がいたという。義民助弥とは後称であり、一般に助弥は二斗八様といわれた。