一 用水堰の開発と保全

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 古牧地区の幹線用水は、北から鐘鋳(かない)川・六ヶ郷用水・北八幡(きたはちまん)川・南八幡川で、昭和十一年(一九三六)の善光寺用水完成(犀川から導水)までは、裾花川が主な水源であった。これら四用水堰(せぎ)は東流して、それぞれ千曲(ちくま)川に入っている。太田荘の地頭(じとう)であった島津氏はながく長沼に居住し、その幾代かにわたって荘園の灌漑(かんがい)に尽くしたといわれる。裾花川より引水した八幡堰下流もその一つであり、八幡堰の一部は一名島津堰と伝えられてきた。

 近世初頭の慶長(けいちょう)期(一五九六~一六一五)、花井吉成・吉雄父子は、長野盆地(善光寺平)一円の土木工事をおこない、裾花川を白岩から真っ直ぐ犀川へ流す工事や乱流していた裾花水系の改修整備などをしたといわれる。「中御所字白岩と称する地を鑿開(さくかい)してこれを犀川に注ぎ今日の河道を通せしが、その功果たしてむなしからず、新田より東南一帯数千町の田圃を得るに至りしとぞ」と『長野町小史』は、裾花川改修の成果を記している。裾花川河床は流路の変更によって、しだいに低下し、水量も乏しいため、取水は、梁手築立(やなてつきた)て、取りこわしの繰りかえしによらざるをえず、農民は、長いあいだ灌漑、生活用水などを確保するため苦労を重ねてきた。用水管理が農民の手に移るにしたがい、寛文(かんぶん)年間(一六七〇年ごろ)に用水組合がつくられ、水利慣行が形成された。鐘鋳・八幡堰組合の取水は、慣行で日中の午前四時から午後四時までは八幡堰、鐘鋳堰は午後四時から午前四時までの夜間だけに限られていた。古牧地区一二ヵ村のうち、北条・平林・荒屋は鐘鋳堰の梁手取組合に属し、他の九ヵ村は八幡堰組合に属し、梁手の構築・補修の賦役(ぶやく)があった。取水口は妻科地籍で、上流が鐘鋳堰、その二〇〇メートル下流が八幡堰であった。古牧地区の水争いの大部分は分水口で起きた(南八幡堰柿の木土居・同分水口・六ヶ郷用水分水口・二枚橋分水口など)。

 大正十三年(一九二四)の大干ばつのときは鐘鋳・八幡両堰組合のあいだに、梁手切り落としについて争いが起こり水利権確認の訴訟となって七年間も争った。その後両者の和解が成立し、昭和六年には善光寺平土地改良区(用水組織の統一組合)によって犀川から取水する工事がおこなわれ、同十一年善光寺用水として完成した。この工事は、用水史上画期的なもので、当該地区農民の取水のための労力・経費が節減され、灌漑の不安は一掃され争いもほとんどなくなった。

 享和(きょうわ)三年(一八〇三)、東之門町の借家住まいの「きた」という女子が、鐘鋳堰の武井石橋より長谷越(はせこし)のあいだへ塵芥(じんかい)を捨てたところを見とがめられ、きた・大屋・組合・組頭連名で、用水組合へ詫び証文を出している。そして、東之門の庄屋は、組下へ今後万一ごみを堰へ捨てた場合は、男女幼少を問わずあとあとまでごみを片付けさせることや、ごみを捨てないことをきびしく申し渡している。そのあと、文政(ぶんせい)四年(一八二一)十月には、双方が立ち会い、岩石(がんぜき)裏など三ヵ所にごみ捨て場を設けた。また、水車渡世も、用水に支障のないよう大きな制約のもとにおかれていた。農民は毎年用水保全のため、堰守(せぎもり)を中心に用水の掘浚(ほりさら)い、切浚(きりさら)い、分水口整備などに多くの労力などをかけ、域内の用水確保に努めてきた。かつて終戦ごろまで長いあいだ、堰や河川は生活用水や格好の水泳場としても、おおいに利用されていた。


写真10 長野県庁近くの大口分水点にある善光寺用水完成の記念碑