江戸時代の主なる産業は農業であり、その中心は米作りであった。
古牧村の石高の変遷を『長野県史』の郷村変遷表でみるかぎり近世をとおして変わらない。しかし、『古牧誌』によれば、宝暦(ほうれき)八年(一七五八)以降、古牧の村々はみな検地を受けた。検地後の石高(収穫高)は松代領全体では幕末に増加しているのに、なぜか古牧の村々は減少している。その理由は、おもに水不足による荒廃だった。当時の田畑の割合は大体八対二であった。明治七年(一八七四)の石高は三三三六石(六〇〇立方メートル)余りで、幕末の石高より一〇〇石余り増加した。古牧では米作りのほか、木綿・菜種・小麦・大豆・藍(あい)などの商品作物の栽培が盛んであった。北高田村では天保(てんぽう)四年(一八三三)、畑のほとんどは木綿作りであった。明治初年の古牧村の木綿の生産高は年におよそ四〇〇〇貫(一五トン)余りであり、そのうち六〇パーセント以上を善光寺町商人へ売りわたしている。菜種栽培も盛んで、文政(ぶんせい)十三年(一八三〇)に油絞り人(油屋稼業)が七人おり、油絞り口数も六口で川中島里分五九口中のおよそ一〇パーセントを占めていた。また、文化(ぶんか)十年(一八一三)の善光寺組油大工仲間(直接油を絞る職人)が四二人いたが、うち古牧地区出身者は一七人(四〇パーセント)で一番多かった。