高田桐箪笥

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古牧の明治・大正期の工業をみると、おのおの経営規模が小さく家内工業的で、商業活動は商圏が狭く、経営規模も小さく農業と兼業が多かった。そんななかで、明治から昭和期にわたって農家の副業として発展をしたのが、高田箪笥(たんす)の製造であった。高田箪笥は、明治二十三年に指物師の技術を身につけて帰郷した人が、長持などを作ったのが始まりという。大正十年ごろには、箪笥を作る職人などが増え、しだいに箪笥作りが盛んとなった。昭和三年ごろになると、西沢指物工場、小池指物工場では機械を入れ、その規模を拡大し、従業員も五、六十人となり、箪笥作りの全盛期となった。当時南高田区の戸数の約三十五パーセントが箪笥作りに従事し、産地として知られるようになった。総桐(そうぎり)の箪笥、三重(みつがさね)箪笥などで販路を拡大し、長野市はもちろん、全県、さらには東京、名古屋、大阪方面にまで出荷した。そして、昭和十年には各種展覧会や博覧会にも出品、賞を受けるようになった。現在はおこなわれていない。