ここでは、江戸時代から昭和二十年ごろまでの古牧の道と交通事情などについてみてみよう。
古牧には昔から北・中・南の三線という地域をあらわすことばがあったという。この三線(一・八メートル)は善光寺へ通じる道であった。
北の線は北尾張部-東和田-西和田-平林-荒屋-高土手-淀ヶ橋-善光寺。中の線は北長池-南長池北部-西尾張部-五分一(夏など旅人が喉を潤(うるお)したという井戸がある)-中村-北条の境、この境の西部に川端道が合流して居町-鶴賀新地-権堂-善光寺。南の線は土屋坊(どやぼう)-南長池南部-南高田-上高田-七瀬-錦(にしき)町-善光寺である。南の道にあたる上高田村では明和(めいわ)九年(一七七二)につぎのようなことがあった。上高田村は、「前沖田の作場通いの細道が善光寺への近道ということから東通りの村々、川東辺りや善光寺の商人がたくさん往来するため作場が踏みあらされ、上納に差し障りがでる」と奉行所へ訴えでた。いっぽう、隣村の北高田村(久保組)からは「作場細道は、上高田村向沖につづく道でむかしから善光寺往来の道筋で、通用できなくなると遠路になり農業の妨げ、年貢・役などに差しさわる」と訴えた。そこで同九月、下高田村利兵衛の仲裁によって、「①諸人往来のことは今後も通行を差し止める。②久保組の者は通用する、ただし、材木・薪などは大道を通る」などをきめて和談が成立した。
くだって道路ははじめ国・県・里道といっていたが、大正八年(一九一九)の道路法の制定により、同九年から種別は国・府・県・郡・市・町・村道となったが、同十二年の郡制廃止にともない郡道は廃止となった。明治中期以降、表3のように県道などの建設がすすめられた。
古牧地区では明治のはじめ、荷車四台、雄馬二〇頭、雌馬一頭、雄牛四頭が使役されていた。明治末年ごろに荷馬車が通りはじめ、大八車が大正四年ごろから使われだし、末期には荷馬車と大八車の全盛となった。大正末から昭和のはじめには、ぽつぽつリヤカーがみられるようになった。乗り物といえば明治のはじめに考案された人力車が主であったが、昭和六年ごろから減りはじめ、同十一年には長野市全体でも三八両となった。かわって増加したのが自転車と自動車であった。自転車は昭和十年ごろからはやりだした。昭和二年には「長野温泉自動車」が平穏(ひらお)自動車(明治四十四年創業)を合併し、長野駅~須坂間(平林街道)などで、バス運行をはじめた。その後路線の拡大などで所有車両は同十六年一二一両となり、乗合バスが県道などを走るようになった。