天明(てんめい)の飢饉(ききん)は、天明二年(一七八二)に始まり、同七年までつづいた。全国的にもっとも被害のひどかったのは、同三年と同六年前後で長雨や低温による不作が主な原因であった。
同三年北高田村(全戸一〇八)では、村役人が「潰(つぶ)れ百姓一七人が難渋のため奉公稼ぎに出たため九三石余の耕作ができなくなり、二七石余は小作に出せたが残りの六六石余は、村役人へ差し出された。そのうえ一七人の百姓の借金が二五五両余もあって、困りはてている」と、右件が片付くことと渡世のたちゆきを郡奉行所に訴願している。七月十二日夜には、大風に雹(ひょう)が降り作物が荒れ、ことに木綿の被害がひどかった。そののちも不順な天候で大豆・小豆などが不作のため村では検分と減税を訴えている。同六年も不作のため村高八四一石(一五二立方メートル)のうち、六二パーセントにあたる五一九石余の減税を願い出た結果、二七二石(願い出たうちの五二パーセント)が減税になった。同村は天保(てんぽう)四年(一八三三)当時水田が大部分で畑はほとんど木綿作であった。村は八月稲作の不作(渋入(しぶいり)・シイナ)を訴え、悪作手当二四両三朱を受納し、各集落で分配している。同五年松代藩は囲穀(かこいこく)として籾(もみ)一四俵を支給し、村々に囲穀を奨励した。同村は、藩の指示どおり、高一石につき籾三斗三升(六万リットル)ずつ、人一人につき籾半俵ずつを村人に割り当てて囲穀をし、飢饉に備えた。同村では、天保五年に衣類一二点が盗まれたのが始まりで以後、食糧や衣類などの盗難が頻々(ひんぴん)としてあった。ことに同六年と八年がもっともひどかった。
平林村は、天保七年冷害で夏作麦がとれず、うちつづく雨で木綿もほけず、籾は三分のとり入れで年貢も納められない状態であったが、ほかから借金して上納した。翌春には食糧の値が四倍にも上がった。村人は、西山や北山へ葛(くず)の根や木の芽を採りにいって飢えをしのぐ一助とした。同村は困窮者へ囲穀を分配し援助をした。被害のもっともひどかった同七年には、村法をきめて職奉行所へ報告している。