弘化大地震の被害など

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弘化(こうか)四年(一八四七)三月の大地震による古牧地区の被害状況は、つぎのとおりであった。

西和田 全壊一九戸、半壊一九戸、即死四人(男一・女三)、堂一ヵ所潰れ住僧死亡(藩から全壊へ二分、半壊ヘ一分ずつ下賜金あり、半潰れの分四両三分は村方一統へ銀九匁三分七厘ずつ分配した)。 平林 全壊一七戸、半壊二六戸、死者七人、残った家四戸のみ。郷蔵破損、安達神社拝殿・宝樹院倒壊。 北高田北条 全壊二戸、半壊一六戸、即死二人(女)、潰れ庵一。 南長池 全壊一九戸、死者八人。 西尾張部 全壊七戸、三人不明。 東和田 七〇軒のうち全壊一六戸、半壊二〇戸、死者三人。

 寛保(かんぽう)二年(一七四二)八月のいわゆる戌(いぬ)の満水は、千曲川沿岸地域に大きな被害をもたらしたが、北高田村では潰れ家一四戸に泥砂が入り、湯福川・中沢・古川・八幡川が出水し所々の田畑が泥水につかり、上高田の田八〇石が砂地となった。

 明治二十四年(一八九一)七月十八日、大雨のため芹田村字岡田の堤防が決壊し、暴水で久保沖の田んぼが一面水となった。そこは前々から危険箇所のため関係市町村の協議費で控堤も築いていた。その控堤も決壊したため、関係市町村は二千余円の再築予算を定めたが、水害のためその費用負担が困難であった。そんななか古牧村議会はいちはやく対応、控堤再築費のうちへ金五〇円の寄贈を議決した。

 現今都市化による道路の舗装などの原因で、雨水が直接水路に流出し、出水時には洪水被害を起こす要因となる。このような状況をふまえ、長野市は平林・北条地籍に、北八幡川の洪水量を一時的に貯留し、下流流量を軽減させるため、第一期工事を昭和四十七~五十一年(一九七二~七六)に、二期工事を平成元~三年(一九八九~九一)におこない、「北八幡川雨水(うすい)調整池」を建設した。その面積は二四〇アール、遊水量が九万トンである。


写真11 北八幡川雨水調整池