古牧(こまき)地区の寺子屋は、表4のとおりであるが、このほかにも私塾的なものがあった。地区では幕末から謡曲・俳諧(はいかい)・挿花(そうか)・歌道などたくさんの師匠がでた。寺子屋の門弟の多くは、夜間農閑期に教えをうけた。南長池村の長田敬斉の寺子屋(読・書・珠)の例をみると、入門時(六、七歳)に赤飯か酒一升くらいを土産とし、盆には麦粉一袋、暮れに二、三百文から二朱くらいを納めた。素読(そどく)や算盤(そろばん)学習者は毎夜学期間に一分から二分の謝礼を納めるのが普通であったという。だいたい二〇歳ごろまで学んだ。ちなみに長野県下における寺子屋・私塾の普及度は高く、文部省が明治十六年(一八八三)に調査した結果では、全国一(八・六パーセント)を占めていた(『日本教育史史料』)。また、県内の寺子屋師匠の身分は、全国的に武士の比率が高いのに比べ、県内では武士は格段に少なくて農民師匠が多く、古牧地区でも同様であった。私塾は幕末期に増加したが、その背景には人びとの学習意欲の高まりや経済的発展があった。同五年の近代教育のスタートまで、寺子屋や私塾は庶民の教育に大きな役割を果たした。その結果古牧地区ではそののち、芸能文化が明治から大正期にかけてもっとも盛んになった。