二 文化活動など

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 南高田伊勢社には勝海舟、北条区には岩下桜園(おうえん)、安達神社には墨林庵蘭喬揮毫(ぼくりんあんらんきょうきごう)のみごとな五反幟(のぼり)がある。同じく川端天神社にもある。現在、幟はたてられていない。蘭喬(堀内源右衛門、挿花(そうか)の号は営雲斉、宝樹院に筆塚あり)は寺子屋師匠で花道も教授した。安政(あんせい)二年(一八五五)平林宝樹院観音堂の修理完成の入仏式に営雲斉社中が生花三五を飾り、このとき式場をとりしきった若者連は花連へ謝礼をおくっている(『平林若者連永代記録』)。平林地区には、宝暦(ほうれき)六年(一七五六)から昭和三十六年(一九六一)まで若者連自身が書きつづった記録がある。若者連の記録としては県内でもっとも古いといわれる。天保七年(一八三六)の平林村議定によれば、一五歳になると親元と相談して若者仲間に入り、年長のものから順番に世話役になり、三五歳(一時四〇歳)で退役することになっていた。また、大酒、色狂い、遊女通い、博打(ばくち)などをしたら、世話役や懇意のものが意見し、聞きいれなければ連はずしにし、たとえ懇意のものでも交際してはならないと定めている。

 長野市に初めて電灯がついたのは、明治三十一年(一八九八)で、それまではランプ生活がつづいた。古牧地区では、大正二年(一九一三)に電灯がともり明るい夜を迎えるようになった。時世の進展とあいまって大正末期から昭和二、三年ころまで、古牧在住の十七、八歳から二十四、五歳の若者約五十人が集まって「古牧青年研究会」を結成した。『村の青年』という新聞を発刊し、音楽会や展覧会などの文化活動を展開した。のちにこのグループからは、音楽家が出、その他の人びとも「わが道をいく」タイプの人が多かったといわれる。