一 敗戦と民主化への波

262 ~ 263

 古牧地区の太平洋戦争の出征者は五五九人で、そのうち戦死者は一二六人(二二・五パーセント)おり、一家で三人も戦死した家があった。長野市は、終戦二日前の昭和二十年(一九四五)八月十三日米艦載機の波状攻撃を受け、市民は戦争をじかに感じた。古牧では、機銃掃射を受けたが幸い大きな被害はなかった(ただし、同十七日川端天神社前へ日本の軍用機が不時着した事件があった)。同月十五日未曾有(みぞう)の犠牲と大被害をこうむった太平洋戦争は、日本国の無条件降伏によって終わった。終戦は同時に新時代の出発でもあった。

 戦後の民主化のなかでも農地改革は、もっとも重要なもので、自作農創設特別措置法(農地調整法)によって、それまで小作農であった大部分が自作農民となった。半封建的寄生地主制の崩壊は、農村の民主化を大きく前進させるもととなった。昭和二十二年には農業協同組合法が公布され、翌年古牧にも農業協同組合(現JA)が設立されて、農業発展の推進力となった。戦後しばらく国民生活は極端な食糧不足やインフレのため、どん底生活を余儀なくされた。そんななかで町や村の青年団活動が新風を吹き込んだ。古牧では、「アルプス楽団」と「白百合楽団」が素人演芸大会などに出演し「また旅者」「南の花嫁さん」などを演奏して観衆をわかせた。占領行政と新憲法の施行の波は日本の政治・経済・文化などの指針となり社会を大きく変革していった。