農業の変遷と商工業の発展

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古牧地区の昭和二十五年(一九五〇)の農家率は四〇パーセントであった。同三十五年には農家率は二四パーセント、総耕地面積は四〇一町歩(三九七ヘクタール)、そのうち田三一一町歩(八〇パーセント)、畑二四町歩、樹園地六六町歩(果樹園三一町歩・桑園三五町歩)で、当時は桑園が果樹園よりわずかに多かった。同三十七年まで、稲二八〇ヘクタール、麦類二四〇ヘクタールを作付けし、米麦それぞれ一万俵以上を出荷していた。農家も六八〇戸で、このころまでは広々とした耕地が広かっていた。かつて盛んであった養蚕業(桑園)は第二次大戦後りんご畑に変わった。りんご栽培がもっとも盛んだったのは昭和四十年代で、このころ品種も多くは「ふじ」に更新された。農家率は同五十五年に一一パーセント、平成二年(一九九〇)には三パーセントに減少した。樹園地も七町歩に減り、桑園は皆無となった。専業農家が二〇戸となった反面、第三次産業従事者が増大し、ことに卸・小売業などは二~三倍に増加している。産業別就業人口は第一次三八一人、二次が三三〇四人、第三次が七七九三人で、その割合はそれぞれ三パーセント、二九パーセント、六八パーセントである。

 戦前一三店にすぎなかった商店数は、戦後の昭和二十年から五十六年までに三〇四店開設され、五七年以降平成三年までに一六六店が増加した。同年の商店数は市内二六地区中三番目に多い。商店数が増大したのは、旧市内に近く、商店などの進出条件にかない、昭和三十年代からの道路整備にともない内外の商店や企業が主に国道一八号・一九号沿線などへあいついで進出してきた結果である。平成三年の商店数四八三のうち卸売業が二二三(四六パーセント)・小売業二六〇(五四パーセント)であり、卸売業の六五パーセントは繊維・機械・器具・建築材料、三五パーセントが衣服・食料・家具である。小売業では飲食料品(二四パーセント)、自動車・自転車(一九パーセント)、家具・建具・什器(一三パーセント)、織物・衣服・身の回り品(一〇パーセント)、その他となっている。年間商品の販売額は一九七〇億四七九五万円にのぼり、市内第四位の販売実績をあげる発展ぶりである。平成四年の古牧の工業事業所数は一五六で従業者数二九一二人、その職種は印刷業が多く全体の六九(四四パーセント)を占め、ついで機械一五(一〇パーセント)、食料一三(八パーセント)、金属一三(八パーセント)家具一一(七パーセント)などとなっている。JR長野総合車両所は昭和二十年、現在地(敷地二七万平方メートル)に戦時疎開として栗田工場(長野駅)から一部工場を移した。同三十九年には本工場となり、四十四年に栗田工場の全部が集約された。同六十二年には民間企業として発足、平成三年には北長野運転所と旧長野工場を統合し、長野総合車両所としてスタート、現在(平成七年十二月)社員四七二人が信越地区の車両検修、新製品の開発・製造・運転などの業務に従事している。とくに鋳造設備による制輪子製造は、東日本ではここだけである。また、木工団地は近代工業として発展し現在七〇社ほどが営業している。


写真13 長野総合車両所の鋳造設備による制輪子製造