明治二十一年市制・町村制が公布されたのにともない、自治にたえうる有力な町村を作るため、村々の合併が推進された。県は、三輪地区について「戸長役場部内の三輪村・宇木村・古野村・上松村・吉田村・中越(なかごえ)村・太田村・平林村の八ヵ村を分けて二ヵ村にする。その一村として三輪村・宇木村・上松村の三ヵ村を三輪村とする。合併村内の戸数の多い村の名称を村名にする」などの提案をおこなった。この案は受け入れられず、第二次案が示されたがまとまらず、第三次案が提示された。その案は、長野町の箱清水は除く、水利の重要性を考えれば古野村を加え、三輪村(荒屋を除く)・上松村・宇木村・吉田村・太田村・中越村の七ヵ村をもって合併するという案であった。三輪・宇木・上松・古野・中越・太田の六ヵ村はおおよそ同意した。吉田村は一村独立を希望した。太田村は七ヵ村合併を希望していたが、隣接村で古くから交流のある吉田村との合併を優先した。曲折はあったが、三輪(荒屋・橋場・田町を除く)・宇木・上松・古野・中越の五ヵ村が合併し三輪村が発足した。発足当時、三輪村は戸数七一四戸、人口三六四六人、反別五二〇町余であった。同時に吉田村と太田村は合併し吉田村となった。