長野市は、大正期に入ると市域が狭すぎるようになり、市の発展のためにも近隣町村との合併の必要を感じていた。大正四年(一九一五)長野市長は、三輪・芹田(せりた)の両村との合併をおこないたいとの意見書を県に提出した。三輪村は、歴史的に著名な村名を失うこと、市に接した部分は村の重要部であり、これを失えば車の片輪を奪われるようなものとして反対した。芹田村も反対、郡長も賛成しなかったため合併は成立しなかった。同十一年にいたり、長野市に吉田町を加え、三輪村および芹田村による一市一町二ヵ村の合併案が具体化した。三輪村村民大会では時期尚早として反対したが、村議会はこの案に賛成した。同年六月関係市町村および郡参事会も賛成した。このとき、古牧村は六項目の要求をかかげ、長野市への同時編入を希望し承認された。同十二年七月一日、三輪村は吉田町・芹田村・古牧村とともに長野市に編入合併した。合併時の三輪村の職業別戸数は、農業五〇五戸、商業三三五戸、工業一二〇戸、交通業三一戸、公務・自由業八〇戸、その他二一二戸であった。