二 条里の遺跡

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 長野市東北部には条里制の遺構をみることができる。なかでも、三輪の条里制の遺構であるといわれていた地帯は、最近まで「三輪たんぼ」で知られていた。

 神護景雲(じんごけいうん)二年(七六八)、水内(みのち)郡の倉橋部広人が私稲六万束を出し、百姓の負稲を償ったことが善行として、時の政府から認められ表彰された(『続日本紀』)。倉橋部広人が政府に納入した稲六万束の生産量を得るためには一三〇~一五〇町余(約一二九~一四八ヘクタール)の水田耕地と推定される。とすれば、この稲六万束の生産量のなかには三輪の水田も含まれていたと思われる。

 三輪地区の最近の発掘調査報告によると、時代の差はあっても開拓や耕作に従事した人びとの集落がこの地の各所に形成されていたようすがうかがわれる。浅川扇状地の標高三七〇~三九〇メートルの扇端地帯は湧水(ゆうすい)に恵まれたが、条里制の導入は乾地帯においても水田耕作を可能にし、その生産性を高めるためには多くの灌漑(かんがい)施設が必要であった。裾花(すそばな)川からの取水堰(せぎ)(鐘鋳(かない)川堰)の開削がおこなわれたのも条里制の導入時期であろう。寛文(かんぶん)六年(一六六六)「三輪村惣村水帳」(写)の字地名に、一枚田、三枚田、八枚田、分田、古道上、中道上・下、大道下、和田道上・下、桶下、桶田、せぎ添、堰ばた、せぎ田、前田、大田などが記されており、これらの地名は条里や灌漑施設に関連するものである。

 宝暦(ほうれき)十三年(一七六三)の「三輪村絵図」には条里制の地割り遺構を示すと思わる箇所が描かれており、明治七年(一八七四)の同村絵図は、その存在が正確に記されている。同年絵図からその地割り遺構をみると、美和神社を基点に南北に九区画、長野電鉄善光寺下駅を西の基点とした場合、乱れたところもあるが東に向かって一四区画を確認できる。この地割り遺構は、多少の相違はあるが古代条里制の地割り方式とほぼ同じで、鐘鋳堰によってひらかれた灌漑地帯と一致する。


図1 明治7年の三輪村絵図 条里制の遺構がよみとれる

 善光寺仁王門の真北の道を東へ直進すると三輪条里制遺構の中央部にいたる。右の宝暦十三年の村絵図は、この道をひときわ太い線で描いている。三輪では、古くからこの道を「なかみち(中道)」と呼び、三輪条里を南北に分ける中心道であり生活道であったと伝えている。