上宇木(うき) 相之木居館跡の東北約八十メートルの地に上宇木居館跡がある。安永(あんえい)年間(一七七二~八一)の上宇木村絵図には「古城跡」と記されている。この地域は古宇木と呼ばれ、宇木地区でも早くからひらかれた歴史をもっている。応仁(おうにん)二年(一四六八)諏訪上社の頭役として水内郡の宇岐(うき)諏継が五貫文の負担をしているが、この宇岐(宇木)氏の居館とも考えられる(『諏訪御符礼(すわみふれ)之古書』)。
昭和八年の『三輪郷土研究』(一)にはこの居館について、「広さは中央小高い所をはかると東西十間(一八メートル)・南北十九間半で東半分は麦畑、西半分は桑畑となっている。西南端と東南に土塁の跡と思われるものが残っている。周囲には濠址と思われる低地があり、幅が西五間(九メートル)、東北・南は一間あり、南部は桑畑に接しているが、他は全部水田になっている」と記されている。現在、居館の敷地と推定される領域は大部分が宅地になっており、一部に濠跡らしいところが残っている。