一 神社

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 美和(みわ)神社 相ノ木東 ①祭神 大物主命(おおものぬしのみこと)、相殿 国業比売神(くになりひめのかみ)・神部神(かんべのかみ) ②由緒 歴史のうえにあらわれるのは、貞観(じょうがん)三年(八六一)二月、相殿の祭神国業比売神に従五位下が授けられたこと、同八年二月信濃国水内(みのち)郡三和・神部の両神が怒って、兵乱や疫病をはやらせるといわれたので、朝廷は国司や講師に命じお経を読誦(どくじゅ)させ、神の怒りを鎮めさせた、との記事である(『日本三代実録』)。一〇世紀に成立した『延喜式(えんぎしき)』神名帳(じんみょうちょう)の同郡九座の筆頭に記載されている式内社である。近世には三和明神とも称し、三輪村の産土神として厚い信仰を得た。現在の社殿は、寛政(かんせい)五年(一七九三)に建立され、以後四回にわたり屋根のふき替えをしている。鳥居は大神(おおみわ)神社の三つ鳥居の三輪型鳥居で知られている。明治六年(一八七三)村社に、同十年県社に、昭和六十一年には献幣使参向神社となった。十二月十六日の神事越年祭は、境内百末社石祠(いしほこら)の全国一之宮の天神・地神の神々に祝膳を捧げ、感謝の誠を尽くす祭儀である。氏子は本郷・城東横山前・相ノ木東・相ノ木西・横山・淀ヶ橋三輪田町・荒屋の八ヵ町で、大当番制で運営されている。拝殿西ノ間に、文化(ぶんか)十一年(一八一四)三輪村霜田弥惣治らによって奉納された算額がある。

 﨤目神社 﨤目(そりめ) ①祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと) ②由緒 境内地一七八五平方メートル、社殿は祝詞殿一三平方メートル、拝殿三三平方メートル、社庫約十平方メートルと鳥居がある。古くから八幡宮と称され、古野村の産土神として崇敬が厚かった。近世は社領除地高一石を受けていた。明治六年村社に列せられ、同十年社号を返目神社と改称した。境内には養蚕社、天満社がある。例祭は九月二十九日。

 宇達神社 下宇木 ①祭神 宇達神、相殿 健御名方神(たけみなかたのかみ)、八坂売神 ②由緒 口碑の伝えるところによれば、古代当地を開拓した神を泥土立神と称したが、のちこの神が訛って宇達神と称するようになったと伝えている。貞観元年十二月、無位であった信濃国の宇達神は従五位下を授けられ、同七年には従四位下になった(『日本三代実録』)。文化二年三月、京都の吉田家より社号許可を受けた。明治六年村社に列せられた。境内地二一一二平方メートル、境内には神武社がある。氏子は上・下宇木の住民である。例祭は十月五日、花火・神楽が奉納される。


写真5 宇達神社 古代当地方の開拓の神としての信仰がある

 駒形嶽駒弓(こまがたけこまゆみ)神社 上松 ①祭神 健御名方富命彦神別神(たけみなかたとみのみことひこかみわけのかみ)相殿 大宜都姫命(おおげつひめのみこと) ②由緒 境内地一六三七平方メートル、社殿六九平方メートル、社務所一一五平方メートル。水内大社の奥社と伝えられている。また昔善光寺の奥ノ院とも称され参拝者が多かった。二月一日境内で同寺の注連(しめ)を焚き、堂童子(どうどうじ)の引き継ぎをおこなう「御駒返し」の神事がある。この神事は、善光寺如来が当社の駒に乗って年越しの夜、市中を巡行されたとの伝説による。大宜都姫命をも合祀(ごうし)しているところから祭日には、馬匹(ばひつ)を参拝させた。また、養蚕守護神としても崇敬が厚かった。文政(ぶんせい)十一年(一八二八)現在の社号となる。例祭は九月二十三日。

 社子(しゃご)神社 横山 ①祭神 伊豆早雄命(いずはやおのみこと) ②由緒 社伝によれば、水内郡芋井(いもい)郷内で健御名方命の子神を祭祀(さいし)する二一社のなかの一つであると伝えている。明治四十二年二月政府の方針により美和神社へ合併した。以後当社の祭日ごとに神璽(しんじ)を当留守宮へ奉還して祭儀をおこなった。昭和二十二年(一九四七)七月神社規則と神社設立が承認された。平成八年(一九九六)長野大通り線の道路拡張により現在地に移転した。旧社地は中世の磁器が出土し中世の館跡と考えられている。氏子は横山町、例祭は十月五日。

 飯綱天神合殿神社 三輪 ①祭神 保食命(うけもちのみこと)、菅原道真公 ②由緒 社伝によると古くから当地鎮護の大神として飯綱神社を奉斎してきたが、のち天神を勧請(かんじょう)して二つの神社を祭った。明治四十二年政府の方針で美和神社に合祀(ごうし)した。社殿はそのまま残し、神域は町内有志の共同所有名義とした。祭日は神璽を奉還し祭儀をおこなった。昭和二十二年神社設立が認められ分座のうえ、社殿を建立した。例祭は十月六日。