二 寺院

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 円通寺 曹洞宗 本郷 ①本尊 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ) ②山号 大悲山 ③田緒 承応(じょうおう)三年(一六五四)松代藩主真田氏によって長国寺末寺として長野市西条に建立された。安政(あんせい)四年(一八五七)に移転し、長国寺二五世覚厳実明が開山となった。その後のことはつまびらかでないが、近世末期には寺子屋として使用された。明治六年(一八七三)三輪村洗心学校の校舎として使用された。同二十五年の火災で本堂や校舎が焼失したが、翌年再建された。その後、三輪村役場の庁舎として使用されたが、大正十二年(一九二三)長野市に合併と同時に庁舎は廃止された。堂宇の修繕をおこない寺院の姿に戻った。

 時丸寺 曹洞宗 相ノ木西 ①本尊 釈迦牟尼仏 ②山号 三輪山 ③由緒 寺伝によると、大和国の三輪時丸(じがん)が死んで、閻魔(えんま)大王に苦しめられようとしたとき、足元に光り輝くものがあり、調べたところ善光寺の印文であった。印文のいわれを時丸から聞いた大王は、驚いて時丸を現世に送り返した。時丸はのち、父母とともに善光寺に参り、当地に一寺を建立して観音寺と号し、正暦(しょうりゃく)五年(九九四)大往生をとげた。善光寺如来の霊験と当山との関係を伝える話である。中世には大乗寺と号した。明和(めいわ)年間(一七六四~七二)に左治木(さじき)長治郎(田町・会津屋)が費用を投じて建立し、盛伝寺九世異中隆玄を請い開山とした。自らは二世となり三輪山観音寺と改め、永平寺末寺となった。善光寺地震と慶応(けいおう)二年(一八六六)の火災で荒廃した。明治四年再建し時丸寺と改称した。

 昌禅寺 曹洞宗 湯谷和合 ①本尊 釈迦如来(しゃかにょらい) ②山号 瑞雲(ずいうん)山和合林(ざんわごうりん) ③由緒 もと真言宗という。開山は上野国甘楽郡出身の天倫正挺(てんりんしょうてい)。文亀(ぶんき)元年(一五〇一)昌禅寺(しょうぜんじ)で死んだと伝える。慶安(けいあん)二年(一六四九)朱印領一三石を与えられた。別に寛文(かんぶん)六年(一六六六)当時、寺領一二石五斗を所持、元禄(げんろく)三年(一六九二)上松村が地附(じづき)山を割山にしたとき、昌禅寺に一二ヵ所が割り当てられ、これは村中一位であった。上松村の大部分が檀家(だんか)で、明治五年当時、檀家数は村外を含めて九六〇軒、これは松代藩領中一位だった。末寺・末庵は明治五年当時二七あったが、現在は九である。現本堂は弘化大地震で全壊後、安政五年に再建したもの。庫裏(くり)は昭和五十五年(一九八〇)再建された。


写真6 昌禅寺本堂

 大定院 曹洞宗 相ノ木西 ①本尊 釈迦牟尼仏 ②山号 七橋山 ③由緒 大定院(だいじょういん)寛禅を開山とする。

横山町竹下茂右衛門の二男として生まれ、仏門に入り修業中盲目となる。郷里に帰り当山を開き三輪地区に七つの橋を架けた。