一 近世村の初見と村のようす

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 三輪地区は江戸時代、松代領であった。近世初期にはすでに、上松(うえまつ)村・宇木(うき)村・中越(なかごえ)村・桐原村・返目(そりめ)村・三輪村の村々が形成されており、いずれも慶長(けいちょう)七年(一六〇二)の森忠政の検地石高をまとめた「川中島四郡検地打立之帳」の水内(みのち)郡の項に記されている。そのときの石高は上松村九五四石余、宇木村四〇五石余、中越村二六五石余、桐原村三六三石余、返目村一九一石余、三輪村一一一七石余であった。

 松代藩は、領地を藩直轄地(ちょっかつち)の蔵入地と家臣(地頭)に土地を知行として与える知行所(給所)の二つに分けている。ほとんどの村は蔵入地と知行所が混在していた。三輪地区の村々も同様であった。寛文(かんぶん)元年(一六六一)の松代藩の「家中分限帳」によれば、三輪村には、二〇人の地頭の知行所が置かれており、そのなかで知行高の最高は一〇五石を有していた。上松村一七人、中越村四人、返目村五人と村の石高に応じて地頭の配置がなされていた。

 寛文六年の指出(さしだし)検地では、三輪村の田の石高は八六二石余、畑の石高は二六〇石余で、田が畑の三倍余にのぼる。中越村も田の石高一八八石余、畑は六五石余で、田が畑の約三倍であった(明治七年)。『町村誌』の宇木村の地味の項には「水利不便にして旱(ひでり)に苦しむ」とある。上松村についても「稲に宜(よろ)し。麦、大豆、大根などに宜し、時々旱に苦しむ」とあり鐘鋳堰(かないせぎ)の南部と北部では農作物に違いがあった。寛保(かんぽう)二年(一七四二)の返目村の年貢率は「四ッ七分」(四割七分)であった。

 文化(ぶんか)十一年(一八一四)四月、幕府測量方伊能忠敬が高山から松本を経て善光寺平に測量にやってくる。藩は領内の関係村々に指出帳を提出させている。三輪村の指出帳には、家数二七二軒で、本村(本郷)二五軒、枝郷の橋場組(淀ヶ橋)一九軒、横山組七一軒、相ノ木組一二三軒、荒屋組九軒、武井組(三輪田町)二五軒とある。同村内には北国街道の宿場は設置されてはいないが、街道沿いに人家が集中し、商業を中心とする町の形成がみられる。上松村にも本郷組・湯谷組・滝組が成立しているが(天保(てんぽう)十年・一八三九)、これらは中世からの集落を基盤とした村落である。

 文化十三年三輪村は、村役人が中心となり藩に迷惑をかけないために、次のことを取り決めている(「検約取極御書上帳」)。村方三役は人家ごとの持高や借財の有無を知っておく。頭立(かしらだち)は、村役人でないからといって知らないふりをしない。潰(つぶ)れ百姓が出たら持地、家屋敷、家財などすべて村役人のもとに差しだすようにする。しかし、家屋敷は親類のものに処分してもらう。親類のものは、その家屋敷を買いとってそのまま借屋にしてもよいなどである。村役人の政務の内容を定め、一人たりとも村内から潰れ百姓や欠落(かけおち)を出さないことが村役人のつとめであるとしている。農民に対しては、日待(ひまち)・庚申待(こうしんまち)をはじめすべての講などは、夕食を共にしてきたが、これからは夕食をすませ神妙に相勤める。節供の音物(いんもつ)(贈り物)中止、婚礼葬礼法事などの衣服は綿布に限るなど検約の徹底をはかった。

 三輪地区内で鐘鋳堰(かないせぎ)は重要な用水である。善光寺町の形成が進展するとともに、同堰に塵(ちり)や芥(あくた)を流す事態が起こり、文政(ぶんせい)四年(一八二一)鐘鋳堰組合の代表者が善光寺領の阿弥陀院町・大門町に堰へ塵・芥を流さないよう抗議したが解決しなかった。ついに組合側は、藩の道橋奉行に書類を提出し裁定を願ったが、藩は内済示談で解決するよう指導をした。その結果、善光寺領内の岩石町裏一ヵ所、東町武井裏一ヵ所、東之門横山小路出先に一ヵ所の計三ヵ所に塵捨て場所が決定した。