堰(せき)には土居(どい)がある。この土居は、本堰の通水量を調節すると同時に、土居の下の村々に用水を供給する親堰の水門で重要な役割をもっている。
文政(ぶんせい)二年(一八一九)の鐘鋳(かない)堰絵図には、上流から七ヵ所の土居が記されている三輪地区内は第四番の返目(そりめ)土居があたる。この土居は同堰南東部の平林・和田・尾張部方面に用水を提供する役割を担っている。平林・和田方面は、敗戦まで八幡堰の用水を利用する面積は全体の一三分の一の三町ほどであった。ほかは鐘鋳堰から取水した中沢堰と返目土居からの用水が中心であった。この返目土居は平林・和田方面の農民にとっては生命線ともいうべき性格のものであった。このためしばしば土居の用水をめぐって争いが起こった。ここでは天保十年(一八三九)に起きた争いを「返目土居一条控」から事件の内容をみてみよう。
事件の発端は用水の配分順をめぐっての争いであった。天保十年七月十六日堰守(せぎもり)徳武宅に北条組、三輪・返目・平林・西和田・桐原・中越・吉田・下越(しもごえ)各村の組合八ヵ村一組の代表者が寄り合い、分水順を話し合った。堰守の提案は、毎夜六時から八時までの二時間は下越村、それから一〇時までは吉田村、それから一二時までの二時間は桐原村・西和田村、深夜一二時から朝六時までは平林村に分水するとの案であった。この話し合いの結果は、平林村の農民には十分徹底されず、平林村から鳶(とび)や鎌をもった農民らが、見張人のいる返目土居につめより打擲(ちょうちゃく)し、土居の留土俵を切り払ってしまった。事態は収まらず、平林村からは頭立や農民が三、四十人掛鳶の類をもって集まり、留土俵の片側を引き払い、そのうえ立杭を取り払い、村に持ち帰ってしまった。その間、悪口雑言をはき、堰守の退役をせまり、堰守は両者の間で右往左往するばかりであった。組合側は喧嘩(けんか)をすることはたやすいが、お上(かみ)にご迷惑をかけてはいけないと差し控えた。十七日も前夜と同様全部平林村に引き払って、水は下の村々にはいかなかった。
堰守宅では平林村代表の欠席のなかで寄り合いが開かれ、組合代表は藩道橋奉行吉原伝蔵に嘆願書を提出した。翌二十一日藩奉行所は、両者を呼び出し「同一堰の組合内のことである」との理由で両者和談で解決するように命じた。この和談から三年間は、このときに設けた土居板を用いて試験をおこなったが良好であった。同十三年内済規定書が作成された。その内済規定書の内容は、「分水のときの土居幅は四尺七寸(一・四メートル)、その中央に五寸(一五センチメートル)角の溝をつけ、柱を立て、また両側の柱にも溝をつける。土居の厚さ二寸(六センチメートル)の板を左右に三枚つける。下板は悪水払いのとき、中板は分水と差定のとき、上板は常水のときに用いる」と決定した。天保年間の返目土居をめぐる争いはいちおうこれで収まった。