三輪地区の鐘 鋳堰と浅川堰

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三輪地区でもっとも重要な堰は鐘鋳堰(かないせぎ)と浅川堰である。鐘鋳堰は、古代・中世にはどのような 名称で呼ばれていたかは不明であるが、近世では、「かん子(ね)川」「かん称(ね)堰」「かんねい堰」「鐘鋳堰」「かんねん川」と記録類には記されている。堰と呼んだり、川と呼んだりしていた。

 中世の善光寺平には先述のとおり、多くの荘園や郷(公領)が存在していた。三輪地区内では東条(ひがしじょう)荘や今溝荘と小井郷がそれにあたる。東条荘の水内(みのち)郡内の領域は、嘉暦(かりゃく)四年(一三二九)の「鎌倉幕府下知状」や天正(てんしょう)六年(一五七八)の「上諏訪大宮同前宮造宮帳」によれば、和田郷(東和田・西和田)、三和条・宮之郷(三輪)、尾張部郷(北尾張部・西尾張部)、石渡戸(いしわと)・石和田(石渡(いしわた))、今井郷・今井分(石渡のうち)、南堀郷(南堀)、北堀郷(北堀)、富武・飛嶽之郷(富竹)、宇木(宇木)、小居、平林(平林)などが知られ、同堰と深い関係にある地域である。

 元徳(げんとく)元年(一三二九)今溝荘内の北条が、沙弥重阿から娘神氏(みわし)女に譲られている。先述の天保(てんぽう)十年(一八三九)の「鐘鋳堰返目(そりめ)土居一条控」によると、同堰の用水掛け順を決定する話し合いに堰守宅に北条組の代表も参加しているが、この話し合いに出席した北条組の北条とは、今溝荘内の北条と同一地域と考えられる。公領の小井郷は中越、太田地域にあたる。これらの荘園や郷はこの鐘鋳堰の用水を利用し、その管理運営には地頭や荘官らの寄り合いがもたれていたのであろう。近世に入ると三輪地区は松代領となり、堰の管理権は同藩の道橋奉行のもとに置かれた。


写真8 鐘鋳堰

 鐘鋳堰とともに重要な用水を供給してくれるのが浅川で、いわゆる浅川堰である。飯綱山麓(さんろく)の湖沼群の水を水源としている。明治十六年(一八八三)の「当浅河原懸組合旧記録控帳」には、寛文(かんぶん)六年(一六六六)から当時にいたるまでの用水確保の歴史が記されている。「大池」は永禄(えいろく)六年(一五六三)高坂弾正の家臣小林宇右衛門が奉行人となり築造したことから始まり、「丸池」は同十年、「上・下蓑(みの)ヶ池」は明暦(めいれき)二年(一六五六)・貞享(じょうきょう)三年(一六八六)で、「大座法師池」は延宝(えんぽう)二年(一六七四)に幅下組と上ヶ屋村ほか六ヵ村から永借地権を得た。「論電池」は宝暦(ほうれき)九年(一七五九)に築造されたが、土堤がぬけ下流域に大災害を起こした。そのため上ヶ屋村池守の取り計らいで、現在の地籍に再築造したことなどである。最近では「猫又の池」が築造された。浅川堰の三輪地区内では、二郎堰を上松村が、三郎堰を上・下宇木村が使用した。浅川堰の利用範囲は広く左堰方面に東条村・徳間村・稲積村、右堰方面は吉田村などで、最終は長沼北部を経て千曲川に合流する。浅川は荒れ川でもあった。大正年間(一九一二~二六)から護岸工事がおこなわれ、吉田地区以下の下流域では、しだいに天井川(てんじょうがわ)になりつつある。