鐘鋳堰・地区内の水利慣行

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享保(きょうほう)三年(一七一八)の鐘鋳堰の利用地域は、松代領一一ヵ村、他領二ヵ村、合計一三ヵ村におよび、五〇〇〇石余の田地を潤す用水であった。これだけの村々が関係していれば争いもさけがたい。しかし、堰の課題は用水を公平に分配することにある。地区内の本堰からの水引き慣行は、近世に入り日割りが決まったと伝えられている。六月二十日(初築手(はつやなて))、同月二十一日~二十三日大田、同月二十四・二十五日吉田、同月二十六日~二十九日中越・桐原、同月三十日~七月七日三輪返目・西和田・桐原と番水し、下流地域から上流へと分水する慣行が定着した。明治二十六年「鐘鋳堰田用水荒塊引協定」となり成文化された(「返目区有文書」)。その後改定され、大正六年(一九一七)「規約書」が成立した。

 つぎに、堰浚(さら)いも堰の管理のために重要な慣行である。種々の経過を経て決定された。文政(ぶんせい)二年(一八一九)の「鐘鋳堰図」(三輪用水掛所蔵)の添え書きに、堰浚いの規定が記されている。それによれば、各村ごとに堰浚いの範囲が決められている。三輪村は北武井橋から返目橋まで長さ一八一六(間(三・三キロメートル)、返目村は三輪村境から桐原村境まで長さ二八〇間(〇・五キロメートル)、中越(なかごえ)村は桐原村境から吉田村境まで長さ一八二間(○・三キロメートル)などである。この慣行は最近まで守られていた。