石高の変遷

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三輪地区は、地形・地質上からみて、鐘鋳堰(かないせぎ)を境にして北部と南部では大きな差かおる。南部の三輪・返目(そりめ)・桐原・中越(なかごえ)は、浅川扇状地の扇端部に位置し湧水(ゆうすい)に恵まれ、地域によっては湿地帯もあり、古くから水田地帯として発展してきた。北部の上松(うえまつ)・宇木(うき)・三輪の一部は、浅川の氾濫(はんらん)地帯で礫(れき)層があり、畑作地帯として発展したが、近世に入って、北国街道以北は、浅川堰によりこの礫層地帯を水田化した。近世の三輪地区の村々の石高の変遷を示すと表2のとおりである。

 三輪村は、宝暦(ほうれき)十三年(一七六三)の「三輪村未(ひつじ)検地本田水帳」によると石高七八町七反余で、田四八町九反余、畑二六町三反余、その他無高除地三町四反余である。この村の石高最高所持者は五町三反余である。無高地が二町九反余あるが、これはすべて鐘鋳堰に関連したものである。村内に占める同堰の面積は、武井橋から返目橋までの長さ九一〇間(一六五四メートル)・幅二間(三・六メートル)で、石高六反二〇歩である。土手敷四ヵ所、砂揚場六ヵ所と石河原が入る。その他観音寺(のち時丸寺)、三輪大明神(美和神社)、一里塚三昧場四ヵ所などの除地が五反余があった。安永(あんえい)五年(一七七六)「土宇木村田地押改本田水帳」により、同村の無高四反余の内訳をみると、道路二ヵ所、堰四ヵ所と個人所有の木立がある。昭和に入っての鐘鋳堰灌漑(かんがい)面積の推移を示すと表3のとおりである。昭和五十年(一九七五)には水田面積は昭和初年の六分の一にまで減少した。


表2 三輪地区近世村々の石高/(県史近世⑦所収)