明和(めいわ)四年(一七六七)の中越村の「御地改野帳」では、大麦・小麦・大角豆(ささげ)・そば・綿・荏(え)・胡麻(ごま)など畑作物の生産のようすを知ることができる。これらの畑作物は近世共通のものといえる。松代藩では、年貢の一部の代納として「綿・荏・胡麻」の畑作物を三品小役といって、村は必ず石高に応じて納入しなければならなかった(ただし、金納の場合が多い)。野菜類をはじめとする自給用以外の作物は藩の統制を受けた。水田の裏作は自由に作付けすることはできた。天保(てんぽう)十年(一八三九)返目村六〇人、三輪村五八人の繭仲買人が活躍している。藩は藩財政立て直しのため、国産奨励と恵売制を実施するにいたる。文久(ぶんきゅう)三年(一八六三)藩は各村に「産物会所」を設置し、生糸・蚕種・繰綿などは専売にすることにした。木綿や油を取り扱う商人の活躍もあった。
近代に入ると、上松・宇木・返目各村など畑作地帯は多く桑園栽培へと移っていったが、地区には他地区にみられるように養蚕業を生業とする農家はあまり出現しなかった。明治二十一年(一八八八)、三輪村に釜数二〇を有する製糸所、同二十三年には釜数四〇、運転は蒸気機関による製糸工場が操業を開始した。同四十四年県は、桑の旧株の掘り取り改植を指導し、普通桑一反歩につき三円の補助金を出した。上松地区の山地部は、大正時代末期からりんご栽培を主体とする生産方式に転換した。それ以前は養蚕が中心であった。