なか道

298 ~ 299

三輪地区には、ごく最近まで古代条里制の遺構を見ることができた。現在、三輪から中越西部にかけて、その遺構である地割り区画を町内道路や境などに見ることができる。北は鐘鋳堰(かないせぎ)を限り、南は平林街道を限る。その中間地点を一本の道路が東西に一直線に走る。この道は、古代条里制が導入されたとき、三輪条里の中央を通る生活道路として造られたと伝えており、「なかみち」と呼ばれている。なか道の東・西の地割り間隔は約六〇間(一〇九メートル)である。なか道を基準にして南への地割りも六〇間(約一〇九メートル)である。また、なか道を基準にして、北への最初の地割り間隔は五五間(約一〇〇メートル)で、次の鐘鋳堰に接する部分までの間隔は三〇間(約五四メートル)である。断定はくだせないが、これらの地割り間隔からみると、なか道を基準にして地割りがおこなわれたことをうかがわせる。

 寛文(かんぶん)六年(一六六六)の三輪村「総水帳」(写)の字地名に「中道上」「中道下」などが記されている。宝暦(ほうれき)十三年(一七六三)の同村の「御給所様御分知帳」(検地帳)には「中道」の字地名は記されていないが、添付されている村絵図には、三輪村から権堂村に通じる道路として描かれている。明治七年(一八七四)の同村の村絵図には、中道が明確に記されている。なか道は、三輪淀ヶ橋を西端の起点にし、三輪・吉田を経て朝陽・柳原・小島を通り、東端の村山で平林街道と合流する。この道は、古くから高井郡須坂方面から千曲川船渡場を経て三輪を通り、善光寺への最短道路であった。現在は返目(そりめ)新町線となっている。