北国街道と脇街道

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近世に入り、三輪地区に北国街道と坂中峠を越えて越後と結ぶ脇街道が開設された。北国街道の初見は、慶長(けいちょう)八年(一六〇三)徳川家康が坂木宿(埴科郡坂城町)にくだした朱印状である。同十六年高田藩主松平忠輝は、領内の矢代(更埴市屋代)以北の諸宿に伝馬宿条目を配布し、街道宿としての心得を徹底させた。この街道は、中山道と北陸道を結ぶ支線であるので、北国脇往還と呼ぶのが順当である。中山道の佐久郡追分宿から分かれ、小県郡上田、埴科郡戸倉、更級郡丹波島、水内(みのち)郡善光寺、同郡野尻を経て越後高田で北陸道と連絡した。また、佐渡からの金銀の輸送は、とくに厳重をきわめた。北陸諸大名の参勤交代の通路でもあった。助郷は近郷三四ヵ村が、その任にあたった。

 三輪地区には、善光寺宿に隣接しているため宿駅は置かれなかった。善光寺宿から北への出発点となった淀ヶ橋に一里塚が設けられた。『玉箒集(ぎょくしゅうしゅう)』には、この一里塚について「今ノ地蔵堂ノ地ハ、弘化(こうか)四年(一八四七)地震ノ節マデハ一里塚ナリ」とある。この地震で一里塚の北部一帯に土砂崩れが起こり、この一里塚は埋もれてしまった。このうえに地蔵堂が再び建立されたと伝えられている。


写真9 北国街道・淀ヶ橋の一里塚があったと伝える場所 今は地蔵尊が祭られている

 天保(てんぽう)十年(一八三九)・同十二年の当地区には、繭仲買人や杏仁(きょうにん)売買人が活躍し、質渡世人は三輪村に三人、中越村に一人いた。このように街道沿いには農業以外の生業にたずさわる階層がしだいに増えてきた。

 善光寺宿から上松を経て坂中峠を越え、越後への近道としての坂中街道(脇街道)が近世中ごろには開設された。この脇街道も大いに利用された。大正十五年(一九二六)、北国街道の南をこれとほぼ平行に長野電鉄が須坂・権堂間に開通した。三輪地区内に善光寺下・本郷・桐原の三駅が開設された。昭和三年(一九二八)には、権堂駅から長野駅間に乗り入れることになり、交通は便利になった。これにより街道沿いの商店街への人出は減ってきた。