寛保二年・天明三年の災害

300 ~ 301

寛保(かんぽう)二年(一七四二)七月二十八日から八月一日にかけての集中豪雨は、千曲川をはじめ、その支流の河川の氾濫(はんらん)をもたらし、山崩れ、田畑・家屋人馬の流失など被害は大きかった(戌(いぬ)の満水)。松代藩郡奉行の氾濫被害の中間報告は、冠水田畑六万一六二四石余、領内被害関係村は一八二ヵ村におよび、山抜け場所九八八ヵ所と記している。同年十一月、藩は領内の水損調査をおこなった。宇木(うき)村はこの災害で一九三石余分が石砂で埋まり、荒地分か一七石余で、合計ニ一九石余の被害が出た。同村の石高は四〇五石余であり、この水害による被害高は約四割にもなった。浅川の氾濫のすさまじさが想像される。領内各地がこのようであったから、藩は幕府から金一万両を借用し復旧対策にあたった。

 天明(てんめい)二年(一七八二)は、春から夏にかけて冷たい長雨で、すべての作物は実りが悪く、信濃では、秋に入ると洪水や降雹(こうひょう)も重なり、大凶作となった。桐原村の実態をみると、田は「大悪作」で実る作物は何一つなく、「春まきの木綿大豆皆無」と畑作の生産もほとんどない。このため欠落(かけおち)や潰(つぶ)れ百姓が多く出てしまっているので、村は寄り合いを開き対策を練っている。その結果、蔵入地分の年貢籾一五俵は期限内に上納するが、残り分と江戸御飯米分は来年の秋まで取り延べの願いを出すことに決めている。不作は米価の高騰(こうとう)を起こし、中野代官所配下の米価は、同三年には平年の約二倍に急騰した。善光寺町の場合も同じで、地区内でもその影響を受けた。農民らは、自衛手段として身近な山野で蕨(わらび)・葛の根・あざみなどを採り食料とした。

 天保(てんぽう)八年(一八三七)、藩は凶作時の扶食(ふじき)対策として、食べられる「植物」「木の類」、毒草の種類、また、草木の毒を解毒(げどく)する植物などを記した「草木扶食品々類」の冊子を作成し、この内容を村民に徹底させた。