明治十九年(一八八六)上水内(みのち)郡役所の「私塾・寺子屋取調表」によれば、三輪地区には上松(うえまつ)村一、三輪村三、宇木(うき)村一とそれぞれ寺子屋があったことが記されている。同取調表によれば天保(てんぽう)十年(一八三九)三輪村の西沢喜右衛門は、農閑期に自宅で習字・読み書きを教えている。生徒は四〇人(男三五、女五)であった。僧職の相木貫道も本業の暇をみて教えており、宇木村の金子弥平太、上松村の山土民右衛門父子も読み書きを教えた。また、三輪村の滝沢浄安は子存誠、孫惟晋と三代にわたり読み書き、挿花(そうか)を教えた。
昌禅寺境内に筆塚三基かおり、そのなかの二基は当山一八世軌外宗準、二〇世隆輪のものである。十王庵境内に山岸仁三郎の篆額(てんがく)がある。仁三郎は天保十二年三輪村生まれで、俳句・挿花・謡曲を岡本翠山に学び、門弟千余人のなかで首席となった。その後、石浦・宝生の両氏につき奥義を学んだ。仁三郎の入門者は百五十余人を数え、近郷はもちろん小川村、芋井村、富士見村からも集まった。
美和神社拝殿の西の間に算額が掲げられている。文化(ぶんか)十一年(一八一四)三輪村霜出弥惣治と大倉村(豊野町)竹内善五郎の二人が奉納したもので、算額には伊藤長五郎幸矩、霜田儀八穀保ら一〇人の生徒名が記されている。和算も盛んであった。