明治四年(一八七一)長野県権令(知事)は、県内に郷学校を設けるよう布達した。三輪地区では、同年県学校を後町の正法寺(現本願寺別院)で開校した。上・下宇木村、三輪村など一三ヵ村から一八〇人(うち女子二)が入学した。翌五年学制が発布され、三輪・宇木・上松の三ヵ村で公立小学校を設立することになった。小学洗心学校である。校舎は、三輪村円通寺の本堂を借用した。生徒は当初男九八人、女一八人であった。同八年の就学率は三八パーセントであった。同二十二年市町村制が施行され、三輪村ほか四ヵ村が合併して三輪村となり、三輪尋常小学校が開校した。校舎は、同十六年円通寺の東隣に建築したものを継続使用した。同二十五年校舎が全焼、翌年十一月に現在地に新校舎が落成した。
大正期には、児童自身のうちにあるものを引き出す教育実践がおこなわれた。また、理科教育に「自然をよくみつめよ」と実験観察を重視した。日中戦争が始まり、教育界に戦時的色彩が強まった。
昭和十六年(一九四一)四月、国民学校令により「三輪尋常高等小学校」から「三輪国民学校」となり、初等科六年・高等科二年の義務制となった。教科書は国定教科書を使用し、運動会は体育錬成大会と名称を変えた。同十九年六月に東京都南千住から、児童約百五十人と先生五人が疎開してきた。これらの児童は大門町の旅館清水屋や二葉屋に泊り込み、敗戦まで三輪国民学校で学んだ。高等科二年生は、男子は桐原にあった松橋兵機、女子は仁科工業へ学徒動員された。校庭に防空壕(ぼうくうごう)をつくり、また掘り起こして畑とし、大豆・いも・かぼちゃが植えられた。昭和二十二年三月、「教育基本法」「学校教育法」が公布され、三輪国民学校は幕を閉じた。新教育制度による長野市三輪小学校が新発足した。