三輪遺族会の会員は平成八年(一九九六)八月現在、七八人である。戦後半世紀を経過している現在では、親族の死去も増え、消息も不明になったりしているから、少なくとも太平洋戦争の戦没者はこの倍以上と推定される。
戦後の民主化改革のなかでもっとも重要なことの一つに農地改革がある。これは、明治時代からつづいていた地主制を廃止し、自作農を創設することにあった。昭和二十一年(一九四六)から第一次・第二次改革がおこなわれ、同二十四年には完了した。長野市の農地総面積一一八八町余(一一・七八平方キロメートル)で、改革の対象となった政府の買収・管理面積は三五八町余(三・五五平方キロメートル)であった。三輪地区内の実態を示す記録は残されていないが、長野市の自作農創設率は約八十八パーセントであった。
敗戦の混乱から立ち直り、国民が文化的教養を培うことも要請された。地域の文化的向上をめざして、昭和二十三年に長野市公民館が開館され、開館二年後に三輪分館が設立された。同二十六年第七回長野市体育祭に三輪分館は総合優勝した。
昭和四十六年十月一日から三輪・上松地区に新しい住居表示が導入された。その理由は、三輪地区の都市化が進行したため、土地の売買で分筆や合筆がおこなわれ、今までの住居表示では混乱をきたしたことにあった。町割りを道路や川、鉄道線路など明確なもので区切ることにした。新しい住所の表示は、町名・街区符号・住居番号を組み合せて表示することになった。
昭和六十年七月二十六日に発生した地附(じづき)山地すべりは大惨事となった。流失土砂五〇〇万立方メートル、大量の土塊が泥流となって下方に押し出された。その範囲は、幅四五〇メートル、長さ七〇〇メートル余であった。土砂のうち主流は、同四十四年に造成された湯谷団地を襲い、全壊五〇戸、半壊・破損一四ヵ所におよぶ被害であった。幸い人命には被害はなかった。もう一つの流れは、特別養護老人ホーム「松寿荘」を全壊させ、当日の入所者一九八人のうち二六人が死亡、四人が重軽傷を負った。さらに、市道一二道路の損壊、バードライン県有料道路は約二キロメートルの崩落、農地四・一ヘクタール、山林一四・四ヘクタールの流失などの損害を出した。災害救助法が適用され、湯谷小学校PTAの母親らによる救援活動かおこなわれた。