農業の変遷と商工業の発展

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農地改革による自作農の創設は、農民に新しい生き方を与えた。昭和三十五年(一九六〇)三輪地区の農家数は三一一戸、耕地面積は六町九反(六・九ヘクタール)余で、自作農(自作・自小作)は一五一戸であった。このうち三反未満の農家数が一二〇戸で、その多くは自小作農であった。一町未満の農家で九八パーセントを占め、一町五反以上の農家は一軒もない。同四十年には農家数は一七五戸、耕地面積は五町余となり、農家の離農が急激に進行した。同六十年には一五歳以上の農業就業人口はわずかに四九人となった。大正十二年(一九二三)長野市合併時の農業従事者は四六四人であった。

 平成元年(一九八九)の三輪地区では、水田四町三反余(約四・三ヘクタール)、畑一町余(約一ヘクタール)、果樹栽培一町五反余(約一・五ヘクタール)で、農家一戸当たりの耕地面積は三反余(約三〇アール)で、専業農家はなくなった。農産物は米、麦類、大豆、大根などが主なもので、そのほか、自家用の野菜類の栽培であった。桑園は消失した。上松地区でりんご栽培を中心とする果樹園農家は四一戸に減少した。平成六年同地区の総農家数は七戸、農家率は○・一パーセント、専業農家数はゼロである。

 いっぽう、商工業の動きをみると、大正十一年の長野市合併時の商工業従事者は、工業三三五人、商業二一六人、交通業八九人、公務・自由業九八人とある。平成三年度版『長野市統計書』によると、三輪地区産業は、(1)繊維・機械器具・建築材料等二三店、従業者一六七人、(2)衣服・食料・家具等三三店、従業者二二九人、(3)飲食料品五三店、従業者二四二人、(4)自動車・自転車一二店、従業者八六人、(5)一般飲食店四七店、従業者二〇三人などとなっている。年間商品販売額は約三九五一億円余である。